内田樹『下流志向』2009年

5月頃のエントリーで私は断続的に教育に関する雑感を述べました。それは、なぜ今の先生たちはかくまでに授業運営に苦労しているのか、という問いからスタートしたものでした。これに対して私は、以下のようないくつかの仮説的な説明を考えてみました。
(1)保護者の高学歴化、つまり教員の威信が相対的に低下したこと
http://d.hatena.ne.jp/senzan/20090511/1241995000
(2)キャリアパスの多様化、つまり勉強以外の生き方が認められるようになったこと
http://d.hatena.ne.jp/senzan/20090513/1242171519
(3)公教育の市場化、つまり生徒・学生が消費者意識を持つようになったこと
http://d.hatena.ne.jp/senzan/20090514/1242254549
(4)情報化による知識獲得コストの低下、つまり学校以外でも知識を識獲できるようになったこと
http://d.hatena.ne.jp/senzan/20090515/1242338066
(5)情報化による親密性の変化、つまり他者への信頼と自尊感情のバランスが崩れたこと
http://d.hatena.ne.jp/senzan/20090524/1243125857
さて、こうした疑問に対して別のアプローチから答えようとしたのが内田樹の『下流志向:学びから逃走する子供、労働から逃走する若者』(講談社文庫、2009年(初版2007年))です。そこではある公立の中学・高校の生徒たちの様子が次のように紹介、分析されています。

「起立、礼、着席」という挨拶を相変わらずやっているのですが、この号令をかけると、生徒学級委員が教師に促されてのろのろ立ち上がり、気のない声で号令をかけると、生徒たち全員が、これ以上だらけた姿勢を取ることは人間工学的に不可能ではないかと思われるほどだらけた姿勢で立ち上がり、いやいや礼をし、のろのろ着席する。僕はこの精密な身体技法にほとんど感動してしまいました。「きちんとした動作をしたせいで、うっかり教師に敬意を示していると誤解される余地がないように」この生徒たちは全力を尽くしている。ただ怠惰であるだけだったら、人間はこれほど緩慢には動けません。必要以上に緩慢に動く方がもちろん筋肉や骨格への負担は大きい。ですから、これを生徒たちが生理的に弛緩していると解釈してはならない。これは明確な意図をもって行われている記号的な身体運用なんです(上掲書、p.60)。

本の学校の授業崩壊は、子どもたちの「怠惰」や「注意散漫」、「無秩序」のゆえではなく、むしろ「勤勉」、「集中力」、「秩序」のゆえである、と著者は喝破します。では、なぜ現代の日本の子どもたちは「勤勉」に授業を崩壊させるのでしょうか?
これに対して内田はいくつかの説明を示しています。
(a)リスク社会化、つまり努力が報われる保証のない状況下で勉強する意義が不透明になったこと
(b)消費者意識・自己決定論の普及、つまりその効果・便益が即時的でなく、また内容が強制的な教育サービスに対して反発するようになったこと
(c)偏差値競争の談合化、つまり集団で勉強を放棄することにより低コストで競争を管理するようになったこと
内田によると、今の子どもたちはすぐれて「合理的」であるがゆえに、本来、「非合理的」なものである教育から逃走しているのだ、ということになります。この説明のポイントは、子どもたちがすでに十分に「合理的」である以上、大人が「合理的」に説得しようとしても、彼らを学びに呼び戻すことは難しい、という点です。
こうした内田の説明が正しいなら、子どもたちを学びに呼び戻すためには次のような3つの方策が考えられるはずです。
第一に(a)に関して、リスク社会を改善し、努力がきちんと報われる社会にすること。第二に(b)に関して、教育を「合理主義的」なものに改革し、子どもたちの自己決定が徹底されるような学校にすること。第三にやはり(b)に関して、消費者意識・自己決定論を否定し、非合理的なものであっても教育を素直に受け入れるような考え方を普及させること。
著者の内田は、このうち三つ目の方策である合理主義的なイデオロギーを乗り越えるべきだ、と述べています。合理主義とは、別に自己決定論とかビジネス・マインド、等価交換の思想とも言いかえられます。たしかに内田のいうように、日本人は一斉に変わる特性があるので、案外、このイデオロギーの否定は難しくないのかもしれません。
しかし、この内田案(第三案)には決定的な難点があります。よしんば日本人が一斉に変化するとしても、それが今よりも望ましい方向に進むとは限らないということです。子どもたちに真偽や善悪、損得と関係のない「非合理」な教育を強制するというとき、その内容は、誤った歴史観や偏見にみちた排外主義、集団のために自己犠牲を強いる従順さかもしれません。実際、「合理主義」に対する反発から行われているある種の教育改革はそのような方向を辿っているのではないでしょうか。
もっとも、多くの教育改革は上述の第二案、すなわち合理主義をより徹底する方向で行われているように思います。学区制の撤廃、学校選択制、教員免許の更新制、私立小学校・中学校の受験ブーム、公教育と塾の連携、学力テストの公開などはいずれも子どもや保護者の自己決定をサポートするようなものばかりです。もはやリスクを引き受けてくれる中間集団も大きな政府もない今、教育改革はますますリスクを個人化=自己決定化する方向に進んでいくのかもしれません。
こうして考えてみると、なぜかつては学校なるものが受け入れられていたのか、逆に不思議になってきます。日本の場合、近代的な公教育制度は他の非西洋諸国と比べてスムーズに導入に成功したという話を聞きますが、なぜそんなことが可能だったのか、あるいは他の地域ではなぜ学校制度の導入に抵抗があったのか、知りたいところです。

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)