新幹線反対運動と埼京線

 『浦和市史』第五巻現代史史料編IIを繙くと、埼京線建設の経緯に関するいくつかの記事が収録されています(pp.224-238)。
 埼京線は1970年代に東北・上越新幹線と伴に建設され、1985年に開業しました。『市史』の史料をみると、「東北900万人」の悲願である新幹線の建設に対して、浦和や与野、戸田の市民は強く反対していたことが分かります。当初、県南地域の新幹線は地下鉄の予定でした。けれども、その後国鉄は地盤の悪さやコストを理由に高架化に方針を転換します。これに対して住民たちは、1973年に「浦和新幹線対策住民連絡協議会」を、1974年には「新幹線建設反対県南三市連合会」をつくって抗議行動を展開しました。デモだけでなく、工事用地でのピケといった実力阻止も行われました。市議会でも、1973年、高架反対が決議されます。県・市の委員会や国鉄の住民説明会では機動隊を導入しなくてはならないほど反対は激しいものでした。 

 (浦和市議会に対する国鉄側の)説明会は、県議会で説明された域を出なかったが、反対派の浦和新幹線対策住民連絡協議会(浦住連・清宮徳一会長)を中心とする約千人が会場前に座り込むなど実力阻止行動に出て緊張したが、県警機動隊員が排除して予定より二時間半遅れて開会した(『埼玉新聞』1979年10月14日、上掲『市史』pp.231より)。

 地下か高架か。反対決議をしてから6年後の1979年12月、市議会は「新幹線早期実現」「通勤新線の建設促進」の二つの陳情を採択し、「新幹線高架反対」の陳情を不採択とします。こうして新幹線は埼京線とバーターされるかたちで地元に受け容れられることになりました。
 東北・上越新幹線田中角栄の『日本列島改造論』(1972年)のコンセプトを象徴するような事業例です。現在から見れば、列島を結ぶ新幹線や首都圏の通勤新線は建設されるべくして建設されたというふうに見えるかもしれません。けれども、当時の史料にあたってみると、その道のりはけっして平坦なものではなく、また直線的なものでなかったことが分かります。1970年代には全国的にこうした問題が頻発していました。成田空港の建設問題は今なお決着していませんが、浦和でも成田を参考にして一坪運動によって用地買収を困難にするという抵抗がありました。
 住民運動の結果、国鉄は騒音・振動対策として高架両測に20メートルの緩衝地帯を設けることにします。この緩衝地帯は長らく遊休地でしたが、昨年、これを使って保育園が建てられました。駅前の至便地に我が子を預けられるのも、こうした歴史的な経緯があってことと思うと感慨深いものがあります。