五百旗頭真氏が復興構想会議議長にベスト・チョイスだと思う6つの理由

 東日本大震災からの復興を構想するための会議の新設が決まりました。

 菅内閣は11日の持ち回り閣議で、有識者東日本大震災からの復興像を描いてもらうため、「東日本大震災復興構想会議」の新設を決めた。復興構想会議の議長は五百旗頭真(いおきべ・まこと)防衛大学校長が務め、6月をめどに第1次提言をまとめる。
 菅直人首相はこの日、五百旗頭氏を首相官邸に招いて約50分間会談。「いい青写真を示してもらいたい。国民が期待している」と述べた。枝野幸男官房長官は記者会見で「被災者の皆さんが希望を持ち、国民全体で共有できる大きなビジョンを描くことが極めて重要だ」と、期待を語った。
 ・朝日新聞ウェブサイト、2011年4月11日22時42分、より
  http://www.asahi.com/special/10005/TKY201104110494.html


 私は、この復興構想会議議長に五百旗頭氏をあてる人事は、今考えられるなかでは最良の選択だと思います。その理由は6つあります。


1.超党派の立場 
 五百旗頭氏は、2006年から現在にいたるまで防衛大学の校長を務めています。氏を自衛隊の幹部候補を要請するための士官学校の校長となるように要請したのは当時の小泉純一郎首相でした。この経歴をだけをみると氏は自民党支持の右派のようにみえるかもしれません。けれども、他方で氏は小泉首相靖国神社参拝には否定的で、田母神敏雄・航空幕僚長が2008年に発表した論文に対してもシビリアン・コントロールを侵すものと批判しています。氏の政治的な立場は「右」や「左」などと単純に割り切れるものではなく、その彼を菅首相が選んだのは超党派的な人事だと思います。
 ・防大学長挨拶
  http://www.mod.go.jp/nda/

2.政府系有識者会議での実績
 五百旗頭氏には自民党政権のいくつもの有識者会議に参加し、提言を取りまとめてきた実績があります。小渕政権の「21世紀日本構想」懇談会、小泉首相の「安全保障と防衛力に関する懇談会」、福田首相の「外交政策勉強会」、外務省の「新日中友好21世紀委員会」、「防衛省改革会議」などです。氏は日本の行政機構の仕組みを間近に観察し、有識者会議の役割を理解した上で、会議を主宰する機会を積み重ねてきました。氏はこの種の会議において初心者ではありません。 
 ・21世紀日本構想懇談会
  http://www.kantei.go.jp/jp/21century/index.html
 ・防衛相改革会議
  http://www.kantei.go.jp/jp/singi/bouei/index.html

3.被災者としての経験
 五百旗頭氏は自身が1995年の阪神大震災で被災したという経験があります。当時、氏は神戸大学教授の職にあり、自宅は西宮市にありました。氏のゼミからは一人の学生が犠牲になっています。また氏は、2006年に設立されたシンクタンクひょうご震災記念21世紀研究機構において、震災当時、行政、消防、自衛隊などで責任者であった人たちから聞き取りを行い、オーラルヒストリーとしてまとめています。氏は大規模災害の経験者であり、その体験を後世に伝え残す仕事にも取り組んできました。
 ・「阪神大震災から三年 いま、後輩たちに伝えたいこと」神戸大学ニュースネット
  http://home.kobe-u.com/top/newsnet/sinsai/tokusyu98.html
 ・『オーラルヒストリーの記録に基づく災害時対応の教訓の活用化報告書』(pdf)
  www.dri.ne.jp/updata/ouraru_5003.pdf

4.研究者としての名声
 五百旗頭氏は多数の弟子を育てた名伯楽にして、学界での声望高い研究者です。氏は京都大学猪木正道(後の第3代防大校長)や高坂正堯らの薫陶を受け、研究者としての道を歩み始めました。氏の門下からはロバート・エルドリッジ・在沖縄・米国海兵隊外交政策部長、服部龍二・中大准教授、高原秀介・京産大准教授、簑原俊洋・神大教授、村井良太・駒大准教授、楠綾子・関学大准教授といった錚々たるる歴史家を多数輩出しています。氏が編集した『戦後日本外交史』(有斐閣)は第3版を重ね、この分野における標準書として地位を築いています。1998年から2002年までは日本政治学会の理事長も務めました。

5.広報者としての能力
 五百旗頭氏は学界の外部に向けても積極的に情報発信をしてきました。氏は1996年から現在にいたるまで15年にわたって毎日新聞で定期的に書評を発表してきました(『歴史としての現代日本五百旗頭真書評集成』千倉書房、2008年)。氏の最新の書評が1月23日付の河田恵昭『津波災害』(岩波新書)評であったことは、彼がどのような役割意識のもとメディアに関わってきたのか、を端的に表していると思います(河田氏もまた本会議のメンバーです)。また氏はしばしばNHKの『その時歴史は動いた』や『視点・論点』などの番組に出演して、現代史の転換点や国際情勢について一般向けの解説を行ってきました。3月末からはNHK教育の新番組『さかのぼり日本史』で戦後日本の来し方について語っています。柔らかみのある氏の神戸言葉は硬派の話題を扱ってもひとを惹きつけるような魅力をもっています。
 ・毎日新聞・『津波災害』書評
  http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2011/01/20110123ddm015070023000c.html
 ・NHKさかのぼり日本史
  http://www.nhk.or.jp/sakanobori/

6.歴史家としての見識
 五百旗頭氏の真骨頂は歴史家としての見識に表れています。『米国の日本占領政策―戦後日本の設計図』(中央公論社、1985年)は太平洋戦争中に準備されていたアメリカによる日本占領計画を実証的に解明した名著であり、歴史学と国際関係論のそう多くない幸福な結婚の一例です。また、『占領期―首相たちの新日本』(読売新聞社、1997年)では、敗戦後の混乱のなかにあって時の宰相たちがいかに行動したか、危機の時代のリーダーシップのあり方が冷徹に評価されています。これら二つの著作の内容を併せて発表された『日本の近代6 戦争・占領・講和―1941-1955』(中央公論新社、2001年)を今読むと、政治指導者はどうあるべきか、成功する復興計画とはどのようなものか、グランドデザインと利益集団の関係、あげくは会議での議論の落としどころまで、この時のために書かれたのではないかと錯覚するほどです。

 もちろん個々の基準においては五百旗頭真氏以上のものをもつ方はいくらでもいるでしょう。けれども、立場、実績、経験、名声、能力、見識などすべての点を満足できる人物は他のどこを探してもいないと思います。以上が、氏が復興構想会議議長にベスト・チョイスだと思う私が考える理由です。

歴史としての現代日本 五百旗頭真書評集成

歴史としての現代日本 五百旗頭真書評集成

戦後日本外交史 第3版 (有斐閣アルマ)

戦後日本外交史 第3版 (有斐閣アルマ)

占領期 首相たちの新日本 (講談社学術文庫)

占領期 首相たちの新日本 (講談社学術文庫)

日本の近代 6 戦争・占領・講和―1941?1955

日本の近代 6 戦争・占領・講和―1941?1955

7月になったら学校でありそうなこと

 現在、被災地を除く東北関東地方で計画停電が行われていますが、このあとも数か月というは単位では従来レベルの電力供給は取り戻させないだろう、と言われています。そうすると今年の盛夏にはどういうことが起きるでしょうか。3月27日現在の供給量が3700万キロワットなのに対して、昨年の猛暑日には約6000万キロワットの需要があったそうです。被災した発電所のいくつかが復旧し、他の電力会社から融通してもらうにしても、福島原発がどうしようもない以上、この夏には相当な節電が要求されるだろうと思います。そうした状況下の学校の様子というのをちょっと想像してみました。
・冷えピタが売れる
 まずエアコンは使えない。使うとしても設定温度は高めになる。大教室は人数が多いので蒸し風呂のようになる。午前中の授業はまだいいとして、午後の3限、4限の授業となると耐えられない。学生も教員も薄着で、ラフな格好になる。集中力も途切れる。みんな冷えピタをおでこに貼って、携帯扇風機を持参するようになる。
・教員の周りに学生が集まる
 次に照明が間引かれる。教室全体を明るくするのは電力の浪費である。後方の蛍光灯は取り外され、窓際はなるべく自然光が利用される。照明効率を上げるために教室前方に集まるよう求められる。これまでは教員を避けるかのように教室の後方の席から埋まっていくのが普通だったが、これからは教卓周辺のすなかぶり席から学生が座るようになる。
・教員が腱鞘炎になる
 パワーポイントの使用も自粛される。プロジェクターでスクリーンに投影するときには消灯できてよいが、排熱が侮れない。かといってマルチメディアスクリーンで表示するとばかみたいに電力を消費してしまう。パワポを使わない板書中心の授業になる結果、教員の指の皮膚はチョークで荒れ、腕は腱鞘炎になる。
・教室がニボシ臭くなる
 暑さのせいで学生も教員もイライラし、キレやすくなる。小林製薬の抗イライラ薬「イララック」が品薄になり、代わりにカルシウムを多く含んだ食べ物が常用されるようになる。ニボシをつまみながら授業が行われる。しかし、臭いもきついのでブレスケアのガムとニボシを交互に食べることになる。
・各地でイデオロギー闘争が発生する
 いっそうもう7月は授業をしないことにする。その代わりに7月分の授業は9月に行う。前期の授業は5,6月の前半と9月の後半とに分割される。しかし、夏休みの間に前半の授業内容を忘れてしまわないように、宿題やレポートが課される。8月下旬のぎりぎりになってから学生が宿題に取り掛かるが、終わりそうにないので親が手伝うことになる。親は30年くらい前の発想で解答しようとするから、社会科学系の授業を中心にイデオロギー闘争が起きる。
 いずれも大げさな想像ですが、今回の地震がもたらした直接・間接の影響は我々の予想を超えるものでした。バタフライ効果がどこまで及ぶか、夏になってみたいと見当もつきません。

週末の過ごし方

 当初のスケジュールでは19日からの週末にはいくつかの予定が入っていました。
 まず19日土曜日には義父母や義弟夫婦らとみんなで浅草今半に行く予定でした。浅草今半は名の知れたすき焼き屋さんで、前々から一度は訪ねてみたいと思っていたところです。週末の夜なので、7名で3階の座敷席を予約してありました。
 翌日20日日曜日には妻の大学時代の友人が住む茨城に日帰り旅行に行く予定でした。その友人からはしばしば子どもにプレゼントを贈ってもらったり、以前からよくしてもらっていました。今回も遊びにおいでよと招かれていたので、水戸の偕楽園で梅を見た後に、魚誠というアンコウ料理屋に行くのを楽しみにしていました。
 けれども、11日にあった地震のせいで、いずれもキャンセルせざるをえませんでした。義父母は仙台市で暮らし、友人は日立市に住んでいたため、いずれも今回の地震津波で被災していたからです。幸い、身体にも家屋にも直接的な被害はなかったそうですが、旅行に行けるような状況ではなくなりました。
 すべての予定がキャンセルされたため、19日は自宅のベランダから月を観察し、20日は近くの荒川河川敷にピクニックをしてきました。日本時間の20日は18年ぶりに月が地球に最接近する日で、普段よりも14パーセントも大きく見えるそうです(「スーパームーン」というそうです)。子どもと一緒に天体望遠鏡を組み立てて眺めてみると、南半球にあるチコクレーターもくっきりと見えて、興奮してしまいました。また、翌日の20日には家族三人で自転車で荒川まで行き、お弁当を食べたり、サッカーをしたりして身体を動かしました。実をいうと、家族そろってのピクニックは子どもが赤ちゃんの時以来のことで、ちょっと新鮮な感覚でした。
 地震直後の先週末はいろいろ気がかりなこともあってずっとテレビを見ていましたが、今週はなるべくテレビを見ずに過ごすようにしていました。

子どもの暮らし

被災地から離れたさいたま市では子どもたちの暮らしはこれまでとほとんど変わっていません。定時に学校に集団登校し、授業が終わると、親の帰りが遅い時には学童クラブに行き、在宅勤務のときには集団下校しています。ただ、直接的な被害はありませんでしたが、間接的な影響はありました。
一番の変化は給食が休止になったことです。計画停電の発表が13日(日)の深夜であったため、14日(月)だけはなんとか用意されましたが、15日以降は弁当持参に変わりました。もともと3学期の給食は18日までだったので、休止の判断もしやすかったのかもしれません。
もう一つ変化というと、子どもがマスクを着けて登校するようになったことです。私自身は、福島原発の事故によって埼玉県にまで健康被害が及ぶとは考えていません。子どもにも心配はないと話しました。福島第一原発からさいたま市まで約200キロメートルあります。同じように、広島から実家のある島までの距離は約200キロメートルです。敗戦後の混乱があったとはいえ、その当時、原爆被害があったという話は伝わっていません。核兵器でさえ、その程度です。
にもかかわらず、子どもがマスクをしたがったのは、学校のクラス担任がマスク着用や窓の閉め切りを示唆したからだそうです。子どもからの伝聞ですから正確なニュアンスは分かりませんが、それにしても先生の行動は過剰反応なように思います。また短縮授業措置の結果、放課後に友達と遊ぶチャンスが増えたにもかかわらず、やはり外遊びを控えるように指示している家庭があるらしく、遊ぶ約束ができない、と子どもは残念がっていました。
そうした中で、先日、子どもが参加しているサッカー少年団で予定通りに卒団式が行われたのは嬉しい出来事でした。6年間毎週土曜、日曜にサッカーの練習、試合に明け暮れていた子どもたちにとって大事な節目の日です。またそれを陰に日向に支援してきた保護者(たいてい母親)にとっても、大事な日です。卒団生の母親や役員の方々は卒業式に参加するような服装で来ていました。ハンカチで目をおさええる出席者もいて、親の胸にも去来するものがいろいろあったのでしょう。
ここ1週間、異例のことの連続でしたが、子どもの気持ちをいたずらに不安にさせるような振る舞いはしたくないものです。

初めての計画停電

地震にともなう福島原発などの事故を受けて、首都圏では計画停電が14日から行われています。地震によって複数の発電所が機能停止し、普段の生活・経済活動で必要とされる電力量が供給できない状況にあります。こうした状態で普段通りに電気を使用していると、大規模な停電が発生してしまうかもしれません。そこで突発的な事故を避けるために、東京電力管内を5つのグループに分け、朝6時20分から夜の10時までを輪番で停電させる、という計画が実施されています。1回の停電は1グループ3時間で、それでも足りない場合は予備のグループも同時に停電される手筈になっています。

13日の深夜に発表された資料によると、我が家のある地域は第1から第4グループまで該当していて、当初は1日中停電するかもしれないと思われていました。その後、市役所がホームページで発表した詳細な資料によって、我が家の丁目では第2、4グループに当たる、というところまでは分かりました。けれども、昨日までこの地域では停電は行われなかったため、厳密にはどちらのグループに該当しているのか分からない、宙ぶらりんの状態が3日間ほど続いていました。停電がないのは便利ですが、予測ができないという不透明さには困りました。

結局、昨日の夜、予定されていた18時20分過ぎに停電したことで、我が家は第4グループにあることが判明しました。17日は朝から冷え込み、電力需要を満たせない状況だったそうです。昼過ぎに経済産業相が記者会見し、大規模停電の可能性があるから一層の節電を訴えていました。いよいよ今晩かなと思ったので、我が家では定刻5分前にはパソコンの電源を切り、懐中電灯やラジオを用意した上で、家族三人、食卓に集まって待機していました。ほどなくして停電が始まると、窓からマンションの外の様子を確認し、テレビの電源を切ったり、保冷用の氷を冷蔵庫に移したりしました。

その後、夕飯をとるには若干早かったので、この機会に停電中の町を家族で歩いてみることにしました。寒かったのでマフラーや手袋を用意し、懐中電灯を持参しました。昨日はあと3日で満月という月齢で、しかもよく晴れていたため、人影ができるくらいの明るさでした。周囲を見回すと、マンションなどの廊下や玄関先などの電灯が着いています。また最寄りのJRの駅や埼京線・新幹線なども、停電に関わらず、営業していました。子どもの通う学校と自宅を往復してみると、途中、地域で夜間パトロールを行っているボランティアの方々をみかけました。普段も巡回されていますが、昨日は停電に合わせて行動していたのかもしれません。ちょうど帰宅時間とも重なっていたので、家路を急ぐひとたちも多く見かけました。一部の用意周到なひとは懐中電灯を携帯していましたが、そうでない大半のひとたちが夜道を足早に進む様子はちょっと危なげでした。

帰宅後は作り置きしてあったピザをガスレンジで焼いて頂きました。停電中に子どもがトイレを1回利用しましたが、汲み置きしてあったバケツの水を使って流すこともできました。折角なのでiPadの星座測位アプリを使って、星空を観察してみました。無線LANが機能していないので、wifiではなく3G経由の利用でしたが、普段はなかなか見えないオリオン座星雲もよく視認できたいので、光害がないおかげだったかもしれません。起きていてもできることはないので、子どもは早くに寝かせました。その後、9時半ごろに停電は終了し、家電製品も復旧しました。けれども、今後も計画停電が続くことが予想されたので、機器の時計合わせはしませんでした。

こうして我が家ではたいした混乱もなく、最初の計画停電をすごすことができました。ただ、『ポケモン』のテレビ番組が見られなったことが子どもには心残りのようでした。

震災時の学校の対応

先週、3月11日に東北地方の太平洋岸で大きな地震が発生し、津波が多くの人たちの命を奪うという災害がありました。地震があったのは昼の2時50分ごろで、子どもたちはまだ学校にいる時間でした。1年半ぶりのブログ更新となりましたが、その時の学校の対応についてメモしておきます。

◆ケース1 先生の引率による一斉下校
私の子どもが通っているのは埼玉県さいたま市の公立小学校です。学年は2年生で、あと2週間で3学期も終わるという日の出来事でした。大規模な災害があると、校庭でクラスごとに整列し、保護者が迎えに来るのを待機するというのが、こういう非常時の予定対応でした。けれども、今回は子どもたちを地域別に班編成させ、一斉下校するという対応がとられました。
学校から理由は聞いていないので正確には分かりませんが、今回の災害の程度では学校で待機させる必要はないと判断されたからかもしれません。さいたま市では震度5強で、この近辺では目立った被害はありませんでした。
また、当日はたまたま一斉下校させる予定の日だった、というのもあるかもしれません。個別に帰宅させるよりも不安は少ないですし、予定と異なる対応をとった方が保護者が混乱していたかもしれません。先生方も方面ごとに引率され、また少なくない保護者の方が自主的に迎えに来ていたので、帰宅は整然と行われました。
週が明けてからは計画停電の影響で短縮授業と弁当持参になった他は、通常通りに学校に通っています。

◆ケース2 保護者によるお迎え制へ
私の同僚の子どもは東京都世田谷区の公立小学校に通っています。学年は3年生です。この子の通っている学校のケースでは、子どもたちだけで集団下校させたことに批判の声が寄せられたそうです。なんでも、子どもを自宅に帰したはいいけれど、電車が止まった影響で保護者は深夜まで帰りつけず、ドアを開けてみるとぐちゃぐちゃになった部屋で子どもだけが留守番をしていた、という状況があったからだそうです。最初から学童保育に行かせていた家庭はよかったのですが、子どもだけによる短時間の留守番を見込んで、保護者が外出していた家庭で、こうした想定外の出来事があったそうです。保護者が帰宅できないような非常時に子どもだけを帰宅させるのはひどいという声を受けて、現在、その小学校では下校時に保護者による子どもの迎えを求めています。
なぜ世田谷では問題になり、さいたまでは問題にならなかったでしょうか。同様のトラブルはさいたま市でもあったかもしれません。けれども、それが大きな問題にはならずにすんだのは、まったくの印象論ですが、さいたま市では自家用車の所有率、三世代同居率、主婦率などの要素が世田谷区よりも高いからかもしれません。そうであれば公共交通機関が乱れても、子どもだけで深夜まで留守番を強いられる、という状況はより少ないでしょう。

こういう異常時には、当り前で、これからもずっと変わらない「現実」と私たちが思っているものが、どういう条件の上に成り立っているのか、それがよく見える気がします。

内田樹『下流志向』2009年

5月頃のエントリーで私は断続的に教育に関する雑感を述べました。それは、なぜ今の先生たちはかくまでに授業運営に苦労しているのか、という問いからスタートしたものでした。これに対して私は、以下のようないくつかの仮説的な説明を考えてみました。
(1)保護者の高学歴化、つまり教員の威信が相対的に低下したこと
http://d.hatena.ne.jp/senzan/20090511/1241995000
(2)キャリアパスの多様化、つまり勉強以外の生き方が認められるようになったこと
http://d.hatena.ne.jp/senzan/20090513/1242171519
(3)公教育の市場化、つまり生徒・学生が消費者意識を持つようになったこと
http://d.hatena.ne.jp/senzan/20090514/1242254549
(4)情報化による知識獲得コストの低下、つまり学校以外でも知識を識獲できるようになったこと
http://d.hatena.ne.jp/senzan/20090515/1242338066
(5)情報化による親密性の変化、つまり他者への信頼と自尊感情のバランスが崩れたこと
http://d.hatena.ne.jp/senzan/20090524/1243125857
さて、こうした疑問に対して別のアプローチから答えようとしたのが内田樹の『下流志向:学びから逃走する子供、労働から逃走する若者』(講談社文庫、2009年(初版2007年))です。そこではある公立の中学・高校の生徒たちの様子が次のように紹介、分析されています。

「起立、礼、着席」という挨拶を相変わらずやっているのですが、この号令をかけると、生徒学級委員が教師に促されてのろのろ立ち上がり、気のない声で号令をかけると、生徒たち全員が、これ以上だらけた姿勢を取ることは人間工学的に不可能ではないかと思われるほどだらけた姿勢で立ち上がり、いやいや礼をし、のろのろ着席する。僕はこの精密な身体技法にほとんど感動してしまいました。「きちんとした動作をしたせいで、うっかり教師に敬意を示していると誤解される余地がないように」この生徒たちは全力を尽くしている。ただ怠惰であるだけだったら、人間はこれほど緩慢には動けません。必要以上に緩慢に動く方がもちろん筋肉や骨格への負担は大きい。ですから、これを生徒たちが生理的に弛緩していると解釈してはならない。これは明確な意図をもって行われている記号的な身体運用なんです(上掲書、p.60)。

本の学校の授業崩壊は、子どもたちの「怠惰」や「注意散漫」、「無秩序」のゆえではなく、むしろ「勤勉」、「集中力」、「秩序」のゆえである、と著者は喝破します。では、なぜ現代の日本の子どもたちは「勤勉」に授業を崩壊させるのでしょうか?
これに対して内田はいくつかの説明を示しています。
(a)リスク社会化、つまり努力が報われる保証のない状況下で勉強する意義が不透明になったこと
(b)消費者意識・自己決定論の普及、つまりその効果・便益が即時的でなく、また内容が強制的な教育サービスに対して反発するようになったこと
(c)偏差値競争の談合化、つまり集団で勉強を放棄することにより低コストで競争を管理するようになったこと
内田によると、今の子どもたちはすぐれて「合理的」であるがゆえに、本来、「非合理的」なものである教育から逃走しているのだ、ということになります。この説明のポイントは、子どもたちがすでに十分に「合理的」である以上、大人が「合理的」に説得しようとしても、彼らを学びに呼び戻すことは難しい、という点です。
こうした内田の説明が正しいなら、子どもたちを学びに呼び戻すためには次のような3つの方策が考えられるはずです。
第一に(a)に関して、リスク社会を改善し、努力がきちんと報われる社会にすること。第二に(b)に関して、教育を「合理主義的」なものに改革し、子どもたちの自己決定が徹底されるような学校にすること。第三にやはり(b)に関して、消費者意識・自己決定論を否定し、非合理的なものであっても教育を素直に受け入れるような考え方を普及させること。
著者の内田は、このうち三つ目の方策である合理主義的なイデオロギーを乗り越えるべきだ、と述べています。合理主義とは、別に自己決定論とかビジネス・マインド、等価交換の思想とも言いかえられます。たしかに内田のいうように、日本人は一斉に変わる特性があるので、案外、このイデオロギーの否定は難しくないのかもしれません。
しかし、この内田案(第三案)には決定的な難点があります。よしんば日本人が一斉に変化するとしても、それが今よりも望ましい方向に進むとは限らないということです。子どもたちに真偽や善悪、損得と関係のない「非合理」な教育を強制するというとき、その内容は、誤った歴史観や偏見にみちた排外主義、集団のために自己犠牲を強いる従順さかもしれません。実際、「合理主義」に対する反発から行われているある種の教育改革はそのような方向を辿っているのではないでしょうか。
もっとも、多くの教育改革は上述の第二案、すなわち合理主義をより徹底する方向で行われているように思います。学区制の撤廃、学校選択制、教員免許の更新制、私立小学校・中学校の受験ブーム、公教育と塾の連携、学力テストの公開などはいずれも子どもや保護者の自己決定をサポートするようなものばかりです。もはやリスクを引き受けてくれる中間集団も大きな政府もない今、教育改革はますますリスクを個人化=自己決定化する方向に進んでいくのかもしれません。
こうして考えてみると、なぜかつては学校なるものが受け入れられていたのか、逆に不思議になってきます。日本の場合、近代的な公教育制度は他の非西洋諸国と比べてスムーズに導入に成功したという話を聞きますが、なぜそんなことが可能だったのか、あるいは他の地域ではなぜ学校制度の導入に抵抗があったのか、知りたいところです。

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)