コピー読書

senzan2006-02-17

電車のなかで本を読むのを「車読」,食事をしながら本を読むのを「食読」,コピーをとりながら本を読む「コピー読」とは言わないけれど,大量に資料を複写するという単純な作業を続けながら,平行してなにか別の資料を読むということはよくやる行動の一つ.今日も何百枚とコピーしながら何本か論文を流し読みしたのだけれど,その最中に考えたこと.戦後の日本は9条の制約もあって,安全保障といっても軍事的な側面が正面から扱われることは少なかった.これはアメリカが安全保障といえば「核兵器による抑止」と同一視していたことと対照的である(その極北がMAD).他方でアメリカはイデオロギー・文化を手段とした安全保障戦略にも少なからず熱心であった(USIAやフルブライト,文化自由会議).両者の関係をどう考えるか.この二つは相補的である.それは,単にハードとソフトの使い分けという以上に,核兵器のような非人道的な武力を正気で持ち続けられたのには一定の文化的・イデオロギー的な自負がアメリカには存在していたから,という意味である.日本の場合,安全保障としての文化の利用に積極的でなかったのは,アメリカのような冷戦の一方の極ではなく,またアメリカに守られていたという事情もあるだろうが,あの道徳化された戦争に敗れたことによって軍事力と相補的な関係になるような文化・イデオロギーへのシニシズムが強かったから,といえるかもしれない.これらの点を併せると,安全保障を研究するにあたって文化への参照は言われている以上に重要なのではないか,とコピー読しながら考えた次第.