SNSと「神の視点」

昨日感想を書いた梅田本著者ブログアメリカの若者がどんなふうにSNSを利用しているのかその状況が紹介されていた。

昨日の午後、大学生を子供に持つ同世代の友人と話をしていたら、アメリカのいまの若者たちは、そのことを明確に意識して、高校時代の友人たち、大学で全米に散った友人たちのそれぞれの先でできる友人たち、大学の友人たち、大学を卒業して全世界に散った友人たち、そしてまたその先でできるグローバル・ネットワーク・・・・・、そういうネットワーク全体を「自分の財産」として蓄積し、きちんと丁寧に日々メンテナンスしていこうときわめて意識的だというのである。そこで昨日紹介したSNSの「Facebook」が使われるわけだ。(24/3/2006)(23/3/2006)

かつてポストモダン系の議論では、キャラクターの複数性やコンテクストのスイッチ、社会的な所与性からの逃走みたいなものが言祝がれたものだが、SNSはその逆をいく。友人や、友人の友人に自分の行動をつねに見せるという前提で行動するから、キャラの使い分けとか高校デビューみたいなことが成り立たない。人格の強い一貫性が求められるが、それと引き換えに人脈と(それと同義だが)信頼を得ることができる。これはウェーバーが着目したカルヴィニズムの行動様式と酷似しており、その意味で「神の視点」の類比で語られるのも頷ける。もっともウェーバーはそうしたエートスに対して(よく誤読されるが)批判的だったのだけど。