岩波アメリカ外交三部作

 近年のアメリカ外交の変質と存在感の高まりを受けて,これをテーマにした著作が岩波新書から立て続けに出ている.藤原帰一『デモクラシーの帝国』(2002),古矢旬『アメリカ 過去と現在の間』(2002),西崎文子『アメリカ外交とは何か』(2004).著者らが示し合わせたわけではないだろうから「三部作」というのはおかしいが,同じテーマを異なるアプローチで描いているという点で補完的な著作群として読むことが可能だし,事実そうされている.ここでは「帝国論」の観点から三者の議論を比較してみる.
 まずアメリカ外交の歴史を帝国的とみるかどうかという問いに関して,藤原本と古矢本はイエス,西崎本はノー(というか積極的な評価は避けている)である.藤原本と古矢本は帝国アメリカに対して批判的である点でも共通している(アメリカを帝国と見なしたからといって即否定的な評価になるわけではない).ただし,両者がそう評価する実体は異なる.藤原本においては「軍事帝国」という一点が最も重視されるのに対して,古矢本ではアメリカ帝国の多義的なあり方が歴史的に追跡されている.藤原本では,アメリカが圧倒的な軍事力を保持することで一方的な抑止を行うようになった結果,外国に対して内政干渉を行うハードルが低くなり,軍事行動が警察化したことが注目されている.この現象は,ソ連が解体し,アメリカを抑止しうる国家がなくなった冷戦以後,とりわけ9/11以後顕著になった.これに対して古矢本では,より長いスパンで帝国の歴史的な屈折が描写されている.ワシントンの「新興帝国」,ジェファソンの「自由の帝国」,マハンの「海洋帝国」など「現在の『アメリカ帝国』の形姿には,植民地時代以来四世紀間に現れた『帝国』をめぐる無数のさまざまな思想,論争,政策が影を落としている」(p.74).例えば,藤原本が注目した圧倒的な軍事力で介入するというドクトリンは,古矢本では,小出しに兵力を投入したヴェトナム戦争の失敗を教訓にした結果として,またそのヴェトナム戦争も「自由の帝国」という伝統との関係で歴史的な厚みをもって説明されている.これに対して西崎本ではアメリカ外交史への帝国概念の適用は抑制的である.モンロー教書,米西戦争ヴェトナム戦争などに触れた箇所で「帝国」の語が登場するが,どちらかというと歴史的用語としての使用であり,アメリカ外交の全体をこの語の下に捉えているわけではない.
 次に現在のアメリカ外交の特徴をどうみるかという問いに関して,この三者は事実の認識と評価において一致している.すなわち,現ブッシュ政権の外交は「圧倒的な軍事力+そのユニラテラルな行使+それに対する理念による正当化」という組合せであると批判的に見る点で,この三部作は一致している.ただし,これにどう対処するかという問いに関しては,三者は異なる.藤原本は国際協調主義をよしとし,そのためにはアメリカ自身が変わろうとすることと,それを促す周囲の努力が大切であるという.その際,藤原本は国際連合に期待したフランクリン・ローズヴェルトを参照する.また,西崎本はブッシュ外交とウィルソン外交の類似を認めつつも,その相違を指摘した上で,E.サイードのいう「もう一つのアメリカ」を参照する.そこではアメリカ自身に自己相対化の契機(異議申し立ての盛んさ)があることが強調されている.これに対して古矢本は積極的な処方箋を書いていない.E.トッドを参照しつつ,貿易と財政の「双子の赤字」と普遍主義の衰退がアメリカ帝国を限界づけるだろう,と述べているだけである.
 さて以上を踏まえて,アメリカ帝国論に対する三部作の立場を要約すると,藤原本は「帝国=ポスト冷戦」派,古矢本は「帝国=歴史的重層」派,西崎本は「帝国=歴史的限定」派といえよう.また,三著は叙述においてそれぞれ個性的であり,藤原本はデモクラシーと帝国の逆説的な関係をハリウッド映画を参照しつつ描き,古矢本は五つのキーワード(ユニラテラリズム,帝国,戦争,保守主義原理主義)を設定することでアメリカ社会と外交の二つを立体的に描き,西崎本はモンロー教書からポスト9/11までを写真やイラストをふんだんに使いながらクロノロジカルに描いている.こうした立場や叙述の相違を考えることは重要であり,著者それぞれの志向やディシプリン,講義をもとに再構成したことなどが一応の背景として考えられるが,これ以上の検討は別の機会にしたい.

デモクラシーの帝国―アメリカ・戦争・現代世界 (岩波新書)

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アメリカ 過去と現在の間 (岩波新書)

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アメリカ外交とは何か―歴史の中の自画像 (岩波新書)

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