長谷部恭男『憲法とは何か』

 先月触れた岩波新書のリニューアル第一弾の一冊.エピグラフに引用されたニーチェの「怪物と戦う者は,そのために自身が怪物とならぬよう気をつけるべきである」が著者のいう立憲主義の考え方をよく伝えていて印象的.その上で感想を二,三.
 現代の憲法は近代的な立憲主義に基づいている.それは,価値が多元化した社会を前提にした上で,考えの異なる者同士の共存を図ろうとする仕組みである.そこで決定的な役割を果たすのが公私の区別である.近代の立憲主義は,私的領域における個人の思想,行動の自由を保障しつつ,公的領域においては共通の利益が公平に探求されるような制度を主張する.しかし,これは見方を変えれば価値のダブル・スタンダードでもある.自分が本当に正しいと思うことなら他人にも薦めてもいいはずだし,その人が間違ったことをしていると思うのならきちんと批判するのが当然ではないだろうか.例えば,以前援助交際が社会問題化したときに,「自分の子が援交するのはいいと思わないし,全力で止めようと思うけど,他人の子がどうするかは各自の自由であり,法律で規制すべきことだとは思わない」というような擁護論(というか批判論への反対)があった.これは公私の区別を前提とするリベラリズムから導き出される典型的な立場である.これに対して,そもそも援助交際をしようという子どもには,そうしたタブル・スタンダードの偽善性(内において厳しい父親,外において欲望にはしる男性)への反発から援交を始めたものがいることが指摘されていた.公私の区分は,ある個人の私的領域における自由を許し,公的な干渉を禁じる.問題は,こうした公私の区分が恣意的であるとき,自由は私的な専制になり,不干渉は公的な傍観になることである(これは一般化すれば価値相対主義の逆機能ということになるかもしれない).なにもダブル・スタンダードへの「反発」が行為を正当化することになるとは思わないけど,そこから公私の区分の恣意性への意識だけは汲みとっておくべきだと思う.
 では,こうした公私の線引きの恣意性(と見えるもの)について,著者はどのような見解を示しているのだろうか.こうした公私区分の恣意性は従来フェミニズムなどが指摘してきた問題点であるが(曰く,家庭を私的領域とするのは家父長的支配のイデオロギーである,とか),近年は保守派によっても問題化されるようになってきている(曰く,公教育が介入すべき事柄について「良心の自由」という錦旗の前に政府は及び腰になっている,とか).この点に対して著者は,まず「公私区分がときに弊害を伴うからといって,この区分をそもそもやめてしまうという話にはならないはずである」(p.14)という原則論を確認する.その上で,公私区分を消滅させるようとする試み(個々人の良心に任されるべき領域に入り込む,とか)は立憲主義的でないばかりか,その意図する目的に対しても非生産的であり(pp.17-18),むしろ公私の線引きをより妥当なものとするような努力(通常の立法プロセス)にこそ傾倒すべきである(p.21),と主張する.だが,そうであるなら公私の線引きに関する憲法判断(例えば首相による靖国参拝など)について裁判所はもっと積極的になってよいのではないか,と素人考えでは思うのだが,どうだろうか.本書ではこの点については触れられていないが,著者の考えを聞きたいところである.

憲法とは何か (岩波新書)

憲法とは何か (岩波新書)