古矢旬『アメリカニズム』

 本書は9/11後の日本におけるアメリカ研究の出色として知られる.その目的は「20世紀アメリカ合衆国国民国家としての特質を,その建国以来の発展の歴史的文脈にさかのぼってあきらかにすること」(p.?)にある.著者はこうした主題に対して統治原理(ポピュリズム),国民形成と国民統合(移民とマルティカルチュラリズム),国際関係(反共主義)などの角度から接近している.以下では本書の最後と最後に置かれた二つの章(理念国家と普遍国家)に触れた上で,2,3の感想を述べたい.

アメリカニズム―「普遍国家」のナショナリズム

アメリカニズム―「普遍国家」のナショナリズム

 まず著者は「まえがき」において,「アメリカ・ナショナリズム」ではなく「アメリカニズム」という呼称を選んだ理由をその特異性から説明している.すなわち,アメリカがヨーロッパ各国にあるような安定した同一性(民族的,地理的,政治的な)を欠いているからである.この結果,アメリカは建国の思想的な基礎をエスニックなものよりも,シヴィックなものに求めることになった.この意味で合衆国は「理念国家」であり「普遍国家」として出発したといえる.
 こうした「理念国家」の形成と変容を扱ったのが第1章である.ここでは19世紀のアメリカニズムと20世紀のそれとの相違が指摘されている.アメリカの建国が抽象的なイデオロギーの水準で構想され,特定の言語や民族集団への配慮が弱いのは,独立戦争が同じエスニシティに属する人間間の戦争だったからである.アメリカ人はイギリスへの反抗を「民族」ではなく「理念」に求めるしかなかった.その内容については,今日まで18世紀ヨーロッパ啓蒙(H.コーン),ロック的自由主義(L.ハーツ),スコットランド啓蒙(A.ポーコック)などが指摘されているが,いずれにしてもこの点がその後のアメリカの多民族統合において適応的であったことは重要である。このようにして19世紀のアメリカニズムは「断絶的、防衛的、例外的、理念的」なものとして形成された。これに対して20世紀のアメリカニズムは「関与的、侵略的、例示的、形式的」な特徴をもつ。この転換の過程(1920年代)においてアメリカは、より介入的な国家行政、大衆消費社会、都市的な行動規範、郊外化などを経験し、19世紀以来の移民集団の孤立や右翼排外主義、革命的ラディカリズム、孤立主義を周辺へと追いやったのである。
 このようにして形成された20世紀のアメリカが世界とどう関わったかを扱ったのが第6章である。20世紀は「アメリカの世紀」であると言ったのは『ライフ』誌のH.ルースであった(1941年2月)。ルースの発言の動機にはアメリカの対外政策をより国際主義的なものに導こうとする意図があった。対外政策における孤立から介入への転換は、真珠湾第二次世界大戦)とギリシア、トルコへの経済、軍事援助(トルーマン・ドクトリン)によって不可逆的なものになる。以後、世界は軍事的な支配、経済的な援助、文化的な浸透を通してアメリカ化されていく。援助や支配は浸透の手段であり、また浸透は援助や支配の契機であった。「アメリカの世紀」とはアメリカの力による世界支配である以上に、ひとびとの意識の根底からの「アメリカ化」を含意していた(大衆文化商品、生活様式、アイディアの普及)。他方で「アメリカの世紀」は今日その内外において抵抗にあっている。国内における根強い差別、マルティカルチュラリズム、経済的競争力の低下、地方主義、また海外での民族紛争、エコロジカルな限界などである。こう論じてきた上で最後に著者はS.ハンティントンの「西欧=アメリカ」論を批判する。第一にアメリカには西欧と連続しつつも、拒絶しているという両義的な自意識があり、第二に「西欧化」と違って「アメリカ化」には自己再帰的な契機があるからである(世界のアメリカ化とアメリカのアメリカ化)。
(以下感想)・「あとがきにかえて」で著者自身が認めているように、一方で多文化主義パラダイムとなり、他方でテーマ別の専門分化が進んだ今日のアメリカ研究では、このようにアメリカの国家的統合を論じることはよく言って「古典的」、悪く言うと「反動的」でさえある(実際油井大三郎による批判的な書評がある)。けれども、そうした流行の研究では9/11後のアメリカの行動(理念の過剰、独善的な介入など)を十分に説明してくれない、というのも事実である。この点本書は「歴史的文脈」に着目する斎藤真の学統を受け継いだことで、そうした問いに応えうる研究になっていると思う。
・著者はまた「アメリカ例外論」批判への反論も述べている。アメリカのナショナリズムという課題設定は、国民国家がなお政治的、文化的に機能している点、また例外性に関するアメリカ人の自意識を研究すること即肯定することではないという点から、擁護することができる。しかし、そうはいっても著者のアメリカ例外論に納得というわけではない。いずれのナショナリズムも一定の経緯を共有しつつも(「想像の共同体」であるとか「忘れ得ぬ他者への反応」であるとか)、その形成の過程において個性的であり、したがってどれを普通といい、どれを例外とは言えないと思うからだ(例えば中国のナショナリズムも相当変わっているでは)。その上でアメリカニズムの例外性を指摘しうるとしたら、そのパワーにおける程度の優越が性質における優越へと意味を変えたときくらいではないか、と思われる。