リアリズムを超えて

昨日は彼女の友人が泊まりに来て,三人で夜遅くまで話し込んだ.それで彼女が紹介してくれた本を表紙が似ているというだけで別の本だと思って,「それって,○○でしょ」とトンチンカンな発言をして赤恥.内容を聞いてみると,市場と政府の関係について異なる意見をもつ二人の教師(男女)が議論をするうちに親密になっていく,というものらしいのだけど(今度読んでみます),それで思ったのはこういう議論を実りあるものとして成立させるための「条件」について.いつかも書いたかもしれないけれど,理詰めの主張は一見冷静で論理的な説得のようにみえるけれど,それも度が過ぎるとイデオロギー的な水準に受け取られてしまうことがある.過剰な理屈は相手の反発を招いて,メッセージの内容よりも,メッセージの動機の方に注意を集めることになる.「そういう主張をするのは,それが正しいからではなく,自分にとって都合がいいから,自分の頭のよさを顕示したいから,自分が優位に立ちたいからでしょ」と.イデオロギー暴露(あらゆる思想をアイデンティティ・ポリティクスに還元するような)としてのリアリズム(E.H.カー的な意味での)には,どちらかというと,生理的な説得力を感じているのだけれど,そういうリアリズムでしか相手の話を聞けないのなら議論は成功しないし,そういうリアリズムを相手に誘発してしまうような話し方は説得として失敗している.夫婦のような親密さが期待される関係においても,そうした危険性が回避できる「条件」はけっして自明のものではなく,つねに意識的でなくいてはいけない,と自戒する毎日.