社会学と儒教

ここでは社会学儒教の親和性について、思うところを述べてみたい。社会学は社会を役割の体系とみなし、個人よりも関係のアプリオリ性を想定しているわけだけれども、それは儒教が個々の人格よりも三綱五倫といった関係的な役割の束として人間を把握していることと通じているように思う。修身斉家治国平天下のように個人的なものから政治的なものまでを一つの連続的に把握し,公私を区別しない議論は、”The personal is political”というフレーズを彷彿させるし、『礼記』にある礼とは区別のことであるという記述は社会の関係論的な見方の端的な表明ではないだろうか。もちろん儒教は人間関係の自然性を強調する点で本質主義的であるが、荻生徂徠のように先王の作為を重視するアイディアもあるのだから、構築主義的に読み換えできる余地もあるのではないだろうか、と素人考えしている。(後日記19/08/2006)