靖国神社

朝起きるとすでに小泉首相靖国神社に参拝した後だった。思うに、ヤスクニは多元的で重層的な争点をひとまとめに呑み込むような特異点になっているという社会的な事実への検討が必要なような気がする。「ヤスクニ」には、例えば東京裁判を文明の裁きと見るか、勝者の後だしジャンケンとみるか、また政治と宗教との関係に関して、政教分離の原則に反していると見るか、神道は日本の国柄だから違反していないと見るか、さらには東アジアとの関係に関して、中韓の意見をもっともと見るか、その発言を内政干渉と見なすか、など複数の問題が重ね合わされている。実際のところ、東京裁判を勝者の裁きと見る人であっても、靖国と首相参拝や厚生省との関係を政教分離の原則に反していると見る人はいるだろうし、首相参拝は信教の自由を侵すものであると考える人であっても、中国・韓国による歴史問題の政治利用には反発するひともいると思う。ある争点で靖国神社の立場を支持したとしても、別の争点で支持するとは限らない。個人的な考えとしては、靖国の考えにも一部頷けるところはあるが、全部を肯定するには無理があるように思う。その意味で、小泉首相の参拝には賛成できないが(もっと適切な追悼の仕方を模索すべき)、彼の「参拝はするが東京裁判を否定するものでない」や「ヤスクニをいたずらに争点化すべきではない」という見解にも汲み取るべきところはあると思う。要するに、諸々の争点を併呑するヤスクニ言説を個別に分析し、ある争点の支持と別の争点の支持との連結を解除していく必要があるように思う。(後日記21/08/2006)