『デス・ノート』,『われ巣鴨に出頭せず』

最近読んだ『デス・ノート』と『われ巣鴨に出頭せず』について感想.前者に関しては,キラは新世界の神というよりもリヴァイアサンで,その理由は1)犯罪抑止といった外形的な秩序に重点があり,精神的・内面的な価値が軽視されていること,2)ルールにやたら縛られていて,先例に通暁した役人の有無がパフォーマンスの差につながっていること,3)道徳的な悪人だけでなく,反逆者までも裁いていること,というような感想.
後者は,「近衛文麿=弱い人」という(本人から昭和天皇までが認める)通説的な理解を転覆させようとする野心的な試みなるも,ドキュメンテーションの水準にかなり問題のある著作.研究にしては実証性を欠き,文学にしては想像力に乏しい.二点ほど感想.1)「その事件で一番得したものを犯人と疑え」式の犯罪捜査的な発想から,戦後直後に近衛を非難したレポートをE.H.ノーマンが書いた背景には反共的な近衛を戦犯にして一番得するソ連の意向を受けていたから,という推理を行っているが,根拠が十分に示されていない.そもそも著者の工藤美代子は以前の著作でノーマン・スパイ説に関して,「わざわざ,その生の喜びを裏切ってまで,スパイ活動をする必然を,私は彼の傷害のどの部分にも発見することができなかった.そうした生の歪みは見あたらなかった」(『悲劇の外交官』1991年,p.387)と結論していたのではなかったか.2)ソ連のスパイ説ないしは陰謀論的な言説が日米関係を調整する装置になっている.著者は,日中戦争で一番得をするのは中国共産党だから日本陸軍共産主義の手先であったとか,日米開戦前に対日強硬策を推進したのはアメリカ内部のソ連のスパイのだったとか,近衛の件とか,そういったソ連の世界支配という線で歴史を解釈している.日本で15年戦争に関する評価の見直しをしようとすると東京裁判,サンフランシスコ講和の否定につながるので,対米関係を悪化させかねないが,全部ソ連のせいだったという話にすれば,日本もアメリカもその犠牲者だったということになり,15年戦争を正当化しつつも,日米関係を悪化させずに済む.幸いソ連は崩壊しているので,そのせいにしても特段の不都合はない,という寸法.

DEATH NOTE (12) (ジャンプ・コミックス)

DEATH NOTE (12) (ジャンプ・コミックス)

われ巣鴨に出頭せず―近衛文麿と天皇

われ巣鴨に出頭せず―近衛文麿と天皇