死刑制度と裁判員制度

 来年5月から開始が予定されている裁判員制度にはいろいろ問題点が指摘されている。普通の国民が仕事や家事を離れて裁判に拘束される精神的・経済的な負担であるとか、法律や判例などの専門知識を持たない素人が有罪・無罪だけでなく、量刑についても判断する点とか、さらにはマスコミの動向や世論の雰囲気によって裁判員の判断が情緒的に振り回されたりする可能性とかである。
 それでもあえて裁判員制度を導入するのには、第一には国民の声を裁判に反映させるという大義があるからだろう。たしかに立法や行政に比べて、司法は民主的統制の度合いが弱い国家権力だったかもしれない。けれども、それに加えてもう一つ重要な理由があるように思われる。裁判員制度は、裁判に国民の意見を反映させるという働きとともに、裁判を通して国民を教育・啓蒙するという働きもあるのではないだろうか。
 この点に関して正鵠を射ているのが井上達夫の死刑制度反対論である。法哲学が専門の井上は死刑制度の賛否に関して次のように論点を5つに整理している(井上達夫「死刑の代償負う国民」『読売新聞』2008年6月4日朝刊)。

(1)冤罪の可能性。神ならざる人間が運用する以上、誤判の可能性はゼロにはならず、かりに無実の者を処刑してしまった場合、取り返しがつかなくなる。
(2)倫理的な傷。死刑という形で「殺人」を実行する司法関係者、それを容認する国民には「倫理的な傷」がある。この「殺人」は正当防衛や戦争のような限界状況とは異なるので、合理化できない。
(3)抑止力論への反証。死刑制度の存在によって犯罪が抑止されているという考えには実証的に否定されている。死刑制度のある地域とない地域を比較すると、前者の方が治安がよいという事実はない。
(4)被害者家族の復讐感情。
(5)それに同調する社会の応報感情。

 この5つの論点のうち(1)冤罪の可能性、(2)倫理的な傷、(3)抑止力論への反証は、死刑制度に対する反対の論拠である。これに対して(4)被害者家族の復讐感情、(5)社会の応報感情は賛成の論拠である。
 井上は反対論の立場に立ちながら、賛成の論拠である(4)と(5)に反論していく。まず(4)被害者家族の復讐感情は、加害者に対する死刑ではなく、別の形で応答されるべきである、という。加害者が「手厚く」保護されるのに対して、被害者遺族は公的な支援を受けられず、しかもマスコミや国民の好奇心の餌食にされてしまう。遺族の悲憤の根底にこのような「不公平感」があるのなら、遺族感情は死刑によってではなく、公的な支援体制の拡充によってこそ対処されるべきである。
 井上は触れていないが、被害者家族の感情を死刑制度存置論の根拠にするにはいくつか難点がある。被害者に身寄りがなく、遺族がこの世に存在しないような場合はひとまず措くとしても、当の遺族が死刑を望まない場合や、被害者遺族が同時に加害者家族であるような場合も、あるからだ。前者については森達也『世界が完全に思考停止する前に』でも紹介されている事例であり、後者については家族内の殺人事件の場合に発生する状況である(例えば2007年1月の渋谷区短大生切断遺体事件)。
 いずれにせよ被害者家族の感情が死刑制度賛成の論拠として不十分であるとしたら、残るのは(5)の社会の応報感情である。井上はこの(5)に対する真摯な反省のきっかけとして裁判員制度を評価している。これは重要な指摘だと思う。
 先に述べたように、裁判員制度には様々な難点があるが、それでも国民の声を裁判に反映させるという大義があった。しかし、実のところ、裁判員制度には国民を司法的に教育する働きもあるのではないだろうか。裁判員は日本人の成人を対象として無作為に選ばれる。特段の理由がなければ、原則、この選出を断ることはできない。こうして選ばれた6人の裁判員は3人の裁判官とともに、証拠調べから有罪・無罪の判断、そして量刑まで幅広く関与する。したがって、死刑を選択する場合には、国民から選ばれた裁判員もそれに対して「責任」を負うことになる。この時、井上が指摘したような(1)冤罪の可能性、(2)倫理的な傷、(3)抑止力論の否定にもかかわらず、裁判員はその「責任」の重みに耐えられるだろうか。これからは裁判官のみによる判決と違って、「他人事」では済まなくなる。(1)(2)(3)のような問題点を帳消しにするくらい、(5)社会の応報感情の方が重要だと本当にいえるのだろうか。裁判員制度は死刑判決の当事者となった国民一人一人に対して「社会の応報感情」なるものの内実を問い直させることになるのではないか。
 たしかに国民の司法的教育は裁判員制度の主目的ではないだろう。ただ、そうだとしても、裁判員制度が裁判をもっと身近なものとして国民に感じさせるようになることは間違いがない。裁判員に選出された当人はもとより、判決の当事者になる可能性を共有する他の国民もまた、「責任」をもって判断することになるだろう。あるいは、そこまでいかなくとも、自分自身も選出されたかもしれない、自分たちと変わりのない、裁判員たちが下した判断にはそれなりの重みを見出すはずだ。その結果が死刑判決であるならば、死刑制度はこれまで以上に民主的な正当性を得るだろう。裁判官は批判の矛先を国民に分散せせることができる。だが、その結果が死刑の否定であるならば、マスコミや世論は従来ほどには軽々と判決を批判することはできなくなるだろう。その判決は潜在的には自分たち自身の選択したものなのだから。
 現在の裁判員制度は、比較的軽い刑事事件や民事事件には適用されない。死刑判決の可能性もあるような重大な刑事事件が対象である。裁判員制度は死刑制度の反省を主目的としたものではないだろうが、副次的にはそうした結果をもたらすように思われる。