民主化の必然性?

もう一つメモ.というか,こっちが最初に書こうとしたこと.「アメリカは中東の民主化を謳ってるけど,実は石油目当てでしょ」というネタばらしは難しく言うとイデオロギー暴露とか,理念の脱構築ということになる.こういう脱構築は,政府の掲げる理想とか正義へのシニカルな態度を導く.シニシズムが人々のあいだに行き渡ると,権力の方も最初から「人権」とか「国際法」とかまどろっこしいことを言わずに,裸の暴力を行使するようになる.けれども,裸の暴力は人々の強い反発,抵抗を招きかねず,高コストで,しかも不安定な支配しかできない.あるいは実際に政権が倒されてしまうかもしれない.ウェーバーが指摘するように,低コストで安定した支配は人々が自発的に服従してくれるような状況を作ることである.そうした支配の仕組みの一つがデモクラシー(多様な意見を集約し,利害の異なる人々のあいだにコンセンサスを作る仕組み)である.こうして権力のシニシズムは一定の犠牲を支払うことによってデモクラシーへとたどりつく.
ところで,この議論のポイントは「露骨な暴力に対して人間は激しく抵抗するものである」という点にある.言いかえると,圧制に対して人間は言葉をもって,また武器をもって立ち上がり,戦うものであるし,またそうあるべきだ,という歴史的かつ規範的な想定がそこにあるように思う(マルチチュード仮説?).そこで激しい抵抗を回避しようとして,民主化が進むと従来は考えられていた.けれども,現在は「暴力」をソフトにしたり(情報技術で),(抵抗するような)「人間性」を変えたり(生命技術で),というような実験が進んでいるように思われる.いずれの場合も葛藤がないので平和に見えるが,支配がないということにはならない.