入江昭『米中関係のイメージ』(2002年)

 著者の専門はアメリカ外交で,学界の要職を歴任した世界的な歴史家である.著者はマルチアーカイバルな手法を早くに採用したことでも知られるが,史料の超域性がトランスナショナルな視点と結びついていない研究が少なくないなかで,その視野の広さにおいても評価されている.本書は「もっと多くの人が,表面的事象や政治的プロパガンダにまどわされることなく,中国やアメリカの過去を自分なりに理解し,何語に訳しても十分伝えうるものを持ち合わせている国際性のあるもの」(1971年版まえがき,p.12)として企図された.以下では関心の範囲でその内容に触れた上で,いくつか感想を述べたい.

米中関係のイメージ (平凡社ライブラリー)

米中関係のイメージ (平凡社ライブラリー)

 ここでは,ウィルソン外交からトルーマン外交までを扱った部分を見てみたい.まず著者はT.ローズヴェルトの勢力均衡論,W.タフトのドル外交と対比して,W.ウィルソンが帝国主義外交に批判的であったことを指摘する.このような「新外交」は対中関係において,不幸な中国人を助け,領土保存を尊重すべきという政策を生んだ.この政策はアメリカの経済的な利益拡張の隠れ蓑であるという指摘もあるが,対日貿易・投資額を見れば,誤りといえる.このようにウィルソン外交は中国のナショナリズムに好意的であったが,1920年代に東アジアでの米英日の協調体制(ワシントン体制)が成立すると,米中関係は冷却してしまう.また1931年に満州事変が起きたときも,それが将来日米の対立へと発展するとアメリカ人で予想したものは少なかった.この背景には,日中対立がアメリカの国益に及ぼす影響を評価できるような総合的な政策をアメリカが欠いていたことが挙げられる.1933年に大統領に就任したF.ローズヴェルト国務長官になったC.ハルらはウィルソン的な道徳主義を受け継いでいたが,依然として中国に介入するほどには積極的な関心持っていなかった.
 こうした状況が変化するのは1938,39年頃のことである.すでに始まっていた日中戦争アメリカがこの時期に関与するようになったのは,東アジアの紛争がヨーロッパの危機と連動しているというイメージが形成されたからである.イギリスをアジアに釘付けにしようとドイツが日本に接近したことや,日本で国家総動員法,東亜新体制声明が出されたことを受けて,アメリカは中国への支持を明確にするようになった.1939年にヨーロッパで戦争が勃発し,40年に三国同盟,41年に日ソ中立条約が松岡洋右外相によって成立されると,アメリカはイギリスとの事実上の同盟関係に入り,今日まで続く国際主義の立場へと転換した.ここで注意すべきなのは,アメリカの対中援助政策があくまで日本からイギリス帝国を防衛するという文脈で実施されたという点である.1941年前半に中国を犠牲にする妥協の可能性が日米間で模索されたという事実は,アメリカにとってアジアが二次的であることを意味した.こうしたヨーロッパ優先主義こそ,対アジア戦略を規定し(D.マッカーサーやE.キングらの反発を招いた),国共対立問題に関して意見が分かれる原因となったものであった(延安に好意的なスティルウェル,J.デーヴィス,J.サーヴィスらと,重慶に好意的なP.ハーレー,A.ウェデマイヤーの対立).日本に原爆が使用されたのも(低コストで勝利が得られたから),国共対立に積極的に介入しなかったのも(中国の戦略的な意義の低下とともに関心も低下したから),根本的にはこの点に理由があった.
 他方でローズヴェルトは中国を入れた「四人の警察官」によって戦後の世界秩序を構築することも考えていた.カサブランカ会談(日本の無条件降伏),カイロ会談(日本帝国の解体),そしてダンバートンオークス会議(中国を常任理事国とした国連の設立)などはこの発想を具体化したものである.ここで重要なのは,こうした発想が米ソ中の協調を前提としている点である.もちろんこの想定はその後現実によって裏切られていくが,G.マーシャルを派遣して国共対立を調停しようとしたり,本来グローバルな封じ込め政策がヨーロッパよりも遅くアジアで適用されたり,D.アチソンが朝鮮と台湾を防衛区域に入れないと発表したりしたのも,いずれも「アジアにおけるアメリカの外交戦略の定義づけを怠り,中国そのもののイメージもあいまいであったことに起因」(p.186)していた.そしてこうしたイメージが決定的に変化するのは朝鮮戦争を待たねばならなかった.
(以下感想)
マッカーシズムのきっかけともなった「中国の喪失」というイメージは,中国の独立を守ってきたのはアメリカであるという自意識を前提としているが,著者の指摘するヨーロッパ優先主義を考えると,それは正しいとはいえない.他方で著者は門戸開放帝国主義なるものも否定しており,全体として均整感のある叙述になっている.
・FDRのヨーロッパ第一主義が指摘されているが,他方で彼はヨーロッパの植民地主義にも反対しており,時に帝国の守護者を自認するチャーチルと衝突したことも知られている.アジアよりヨーロッパを優先したといっても,英仏とアメリカの間には利害関係の葛藤がなかったわけではなく,こうした多正面作戦的な態度がFDR外交の評価を難しくしているように思われる.
・イメージや理念を重視する著者の議論はしばしばコンストラクティヴィズムに通じるものとして評価されるが(芝崎厚士や篠原初枝らの指摘),本書でもそのことは言える.ただ,ヨーロッパとアジアの紛争がグローバルに連動したときに真珠湾への道が開けたと著者が言うとき,その連動というのはどれほどイメージ的なものなのか,あるいは地政学的なものなのかが,はっきりしない印象を受けた.