象徴資本の勘定

先日子どもを叱るコードとして自分の体験が参照されるという話をしたけど、もちろん他にもいろんな文法に依拠している。例えば、上手に謝ることができるのはすごい「象徴資本」だと思う。ひとに迷惑をかけたり、ルール違反をしたりすると、きちんと謝るのが世の常識だけれど、実のところそれは誰にでもできること、やろうと思ってすぐにできることではなくて、ある程度学習や訓練をしないと(子どもにしても、大人であっても)身につかないコミュニケーションの作法であろう。言い換えると、きちんと謝ることができるひとは、たとえ迷惑をかけていたとしても、謝り方ですごく得をすることがある(株が上がることさえある)。挨拶がきちんとできるとかひとの話に耳を傾けるとか、そういうのも立派な象徴資本だから、子どもと接するときにはついそういう発想でしつけることになる。ピアノや英会話とかも子どもの才能を開花させるためというけれど、半分くらいはディスティンクトするためでしょ、と思って見てしまう。だから、ダコタ・ファニングみたいな歯列矯正の子をみかけると、そういうゲームのルールが露呈されているようで辟易してしまう。