柄谷行人今昔

 朝日新聞の読書欄で柄谷行人が『資本主義に徳はあるか』という新書本について書評していたのを読んで,ちょっと雑感(以下に言及する著作はすべて今手元にない状況なので,記憶に頼って書いています.確認すれば避けられるような勘違いや誤解がありうることを予めお断りしておきます).
 この書評で柄谷は本書における道徳と経済,政治などの異なる分野の混同に対する批判に着目している.

 …最も危険なのは、経済や政治の秩序と道徳の秩序の混同である。たとえば、ひとびとが平等であるべきだという考えは、道徳の秩序に属するが、それを経済的に実現しようとすると、経済を破壊することになる。その結果、平等そのものが実現されなくなるだけでなく、道徳的な理念が嘲笑(ちょうしょう)的に否定されるようになる。それは旧ソ連社会主義経済とその崩壊がもたらした事態である。
しかし、経済や政治の秩序と道徳の秩序の混同は、今日でも別の形で生じている。たとえば、道徳性が政治の領域にもちこまれている。「聖戦」とか「正しい国家」のような考えがその例である。
 一方、「企業倫理」というような言葉がよく使われている。まるで経済が道徳的でありうるかのように。しかし、個人のレベルに存する道徳性や愛を、集団である企業に見いだすべきではない。企業は何よりも利潤を追求しているのであり、そうでなければ成り立たないのだ。(2006年10月22日付書評)
http://book.asahi.com/review/TKY200610240300.html

 これは一見至極まっとうな主張に思えるが,経済と倫理の「混同」や資本主義の道徳化のような主張はマックス・ウェーバーのプロ倫があるように珍しくない.信仰心に導かれた勤勉の結果として富が生み出されるという資本主義の動態に関する理解は,ウェーバーのこれに対する批判的な含意を離れて,普通に流布している.日本でいうなら,その種の経営道徳は「松下幸之助の経営哲学」みたいなかたちで耳にする.だが,ここで問題にしたいのは,彼らの経済と道徳の混同ではなくて,これを批判している当の本人(=柄谷)が1980年代に経済の倫理化みたいなことを言っていたことである.それについて述べる前に,同時代のアメリカの市場経済論を補助線として書いておきたい.
 佐々木毅の『アメリカの保守とリベラル』(1993年)は80年代のアメリカの保守革命を簡潔に描いた名著として知られるけれども,そこで佐々木はレーガン時代にベストセラーになったジョージ・ギルダーの『富と貧困』(1981年)という本に言及している.それは一言でいって「資本主義の神学」とでもいうべき議論である.資本主義を批判する者はしばしばその本質を「収奪」に認めるが(したがって,貧困は収奪された結果とされる),これに対してギルダーはその本質を「贈与」に求める.「贈与」としての投資や起業は未来における利潤を保障しない.人間の予測能力は確実ではない.けれども,というよりも,それゆえに,あえてリスクを引き受け,挑戦するものだけが富を得る道徳的な資格を有している.彼らは,計り知れない不確実性にもかかわらず,「与えよ,さらば与えられん」という聖書の一節を信じたものだからである(しがって,この文脈では貧困はむしろ道徳的な欠陥の表れとされる).
 こうしたギルダーの神学を読んだときにまず思い浮かべたのが,柄谷が『探求』(1986年)などで繰り返して強調していた「暗闇の中の跳躍」である.そこで柄谷はコミュニケーションの根源的な不安定性やリスクを強調していて,ある発言が他者に対してもつ意味やある商品が他者によってどのような価値を与えられるかは,事前には決して予測しきれるものではなく,会話や交換の結果をコントロールすることはできない,というようなことを議論していた.柄谷は,そうした「暗闇の中の跳躍」を恐れコミュニケーションから退却したり,他者をコントロールしようとしたりする行為や思想を倫理的に劣ったものとして批判していた(ような印象を,少なくとも当時の自分は感じていた).今思うと,柄谷によるマルクスクリプキの読み替えは,ギルダーミルトン・フリードマンといったレーガン派が市場経済を擁護した80年代の同時代的な文脈に位置づけられるかもしれない.
 それから20年がすぎて,今日,ギルダーは情報産業やインターネットに関するユートピア的な主張をするサイバー・リバータリアンとして知られている(「ギルダーの法則」のひと).それは彼の80年代の起業家論の延長で十分に理解できるものだ.日本でいえば梅田望夫が,見返りが保障されていなくてもあえて挑戦するシリコンバレーの進取の精神を言祝ぐのに対応している(『ウェブ進化論』2006年).これに対して,柄谷はある時期からコミュニケーションを「暗闇の中の跳躍」に単純化するような議論を控えるようになった.資本主義に関していえば,柄谷はマイケルカール・ポランニーにならって経済的なコミュニケーションを市場における取引だけに還元することを批判して,再分配や互酬といった多様なあり方(の組み合わせ)を重視するようになった(『トランスクリティーク』2001年).こうしたコミュニケーションの形態の複数性という発想は,この書評でも開陳されている人間の能力をいくつかの独立した分野(真偽,善悪,快不快)に分類して考えることと対応している.
 近年の柄谷の議論をきちんと追跡しているわけではないけれども,こうした複数性とその組み合わせという議論は,よく言えば「したたか」だが,以前に比べれば「ラディカル」でなくなったことは否めない*1.このことは,ジェームズ・スロウィッキーの「群衆の知恵」論について,一元的にまとめられた群衆よりも「多様性,独立性,分散性」のある群衆の方が「賢い」と彼が書評していることとも符号する*2.これは,スロウィッキー仮説を引証しつつグーグルの理念を語る「ラディカル」な梅田望夫への黙視的応答と読むことができるかもしれない.
 今の自分には柄谷のこうした軌跡をきちんと評価する能力をもたないが,それでも自らの来歴を考えるための一つの座標軸として彼の仕事にはなお関心をもっている(25/10/2006後日記).

*1:前段で「よく言えば」と書きましたが,後段でいう「ラディカルさ」を肯定的な指標と考えているわけではありません.

*2:「たとえば、集団の中で討議すると、個々人は賢くなるだろうが、討議を重ねるほどに、皆が同じ意見をもつようになる。そして、多様性・分散性・独立性が失われ、いわゆる「群集心理」に陥ってしまう。ゆえに、群衆がいつも賢いというわけではない。一定の状態にある群衆が賢いのである。実際には、集団がこのような要件をみたす場合は多くない。その要件を満たす代表的な例として、意思決定を市場にまかせる「予測市場」がある。確かに、市場では、人々は相互に独立している。とはいえ、市場であれば何でもいいというわけではない。利潤を目指す市場にはいつも、付和雷同的なバブルが生じる危険があるからだ。」2006年3月26日付書評http://book.asahi.com/review/TKY200603280332.html