須原屋

 浦和の旧中山道沿いに須原屋という書店があります。新宿や池袋の本屋に比べるとけっして大きくはありませんが、学術書からレッズ関連本まで品揃えは多彩で、良心的な本屋さんです。
 「須原屋」と聞くと、歴史をやっている人間には「江戸書林の魁」、須原屋茂兵衛やその分家にあたる市兵衛の須原屋を連想します。今田洋三の『江戸の本屋さん』(日本放送出版会、1977年)によると、茂兵衛の須原屋は『武鑑』や、齋藤月岑の『江戸名所図絵』『武江年表』を出版した本屋として知られます。『武鑑』は、諸大名の氏名、本国、居城、石高、官位、家系、相続、内室、参勤交代の期日、献上・拝領品目、家紋、旗指物重臣などを掲載した小型本で、今で言う『国会便覧』のようなものです。また須原屋は寺子屋向けの教科書も出版していたそうです。他方、市兵衛の須原屋は杉田玄白前野良沢の『解体新書』などの蘭学書や、武士の戯作などを出版していました。なお、当時の書店は出版、取次、小売をかねていました。
 現在の須原屋は公式サイトによれば創業明治9年(1876年)とあり、江戸時代の須原屋との関係は詳らかではありません(会社概要 - 須原屋)。『江戸の本屋さん』によると、明治初期においても須原屋は活躍していたようなので、なんらかの関係はあるのかもしれません。

 須原屋茂兵衛は、天保期以降の出版の新展開の時流に乗って発展した。明治新政府も、その宣伝活動に須原屋を起用せざるを得なかった。九代茂兵衛充親は、慶応四年(明治元年)二月二十三日から京都書林仲間の筆頭村上勘兵衛とともに官板『太政官日誌』の印刷販売業務を請け負う。明治四年十月には『万国新聞』を創刊し、明治六年には山中市兵衛・村上勘兵衛とともに太陽暦暦本の出版権を与えられた(前掲書、p.196)。

 ところで、江戸時代において「本屋」とは狭義には学術書や教養書などの堅い本だけを扱う店を指していたそうです。「本屋」とはもともと「物之本屋」の意で、浄瑠璃本や草双紙、浮世絵などの娯楽的な書物を扱う「草紙屋」や「地本問屋」とは区別されていました。こうした伝統にならえば、学参や入試要項、資格試験を取り扱いつつ、「浦和レッズ」のコーナーを正面入り口に赤々と設けている須原屋は「本屋」であり、「草紙屋」でもある、ということになるのかもしれません。