雨宮昭一『占領と改革』

 清沢洌は『暗黒日記』で日本の戦時体制を軍国主義共産主義の合作として把握していた。このような同時代イメージは政治史的にも確認されている。
 雨宮昭一は1920年代以降の日本政治史のアクターとして自由主義派、国防国家派、社会国民主義派、反動派の4つを指摘している。雨宮の叙述はシンプルだが説得力があって、しかも通念的な日本史像に変更を迫るパワーがある(雨宮昭一『占領と改革』岩波新書、2008年)。
 1920年代の体制派は自由主義派である。その内実は国内的には政党政治、国際的にはワシントン体制である。けれども、30年代になると他の3派からの挑戦を受けるようになる。反動派の右翼や陸軍皇道派はテロやクーデタによって政治家や財界人を暗殺した。国防国家派や社会国民主義派もまた20年代の体制派を否定した点では反動派と共通している。けれども、彼らの立場は「反動」ではなく、「革新」であった。彼らは政党政治を時代錯誤と批判し、アジア主義的な新秩序を求めた。30年代末に日中戦争が始まると、権力はこの社会国民主義派と国防国家派の手に落ちる。前者には近衛文麿の周辺に集った風見章や麻生久、有馬頼寧らが、後者には東条英機を代表として岸信介賀屋興宣らがいた。この2派は、総力戦によって経済の統制と社会の平準化を進め、国民生活の格差是正によって彼らを戦争に動員させるという点で、利害が一致していた。太平洋戦争下に清沢が批判したのも、こうした近衛―東条体制である。
 しかし、1942年6月にミッドウェー海戦で敗北すると、「反東条」をシンボルとした反体制運動が徐々に活発になる。体制を批判したのは自由主義派と反動派である。彼らが恐れたのは戦局の悪化にともなう日本の荒廃であり、それ以上に、それによって誘発される共産主義革命であった。これを避けるためには継戦より和平が必要である。この点でこの2派は連合することができた。44年7月には東条内閣は倒れ、小磯国昭内閣が発足する。その背景には若槻礼次郎岡田啓介自由主義派、平沼騏一郎近衛文麿ら反動派がいた。30年代までの近衛は革新派であったが、対英米戦の前後に彼は反動派へと転向していた。45年2月の近衛上奏文には敗戦よりも革命を恐怖する意識が如実に表れている。こうして戦争は緩やかに終結の方向へと導かれる。ポツダム宣言受諾の背景には、アメリカによる原爆投下、ソ連による対日宣戦布告の他に、こうした和平を支持するアクターが日本の政権にあったことも重要である。
 1945年8月に日本が敗戦を迎えると、幣原喜重郎鳩山一郎吉田茂1920年代の自由主義派が表舞台に登場するようになる。けれども、それは敗戦によって唐突に「復活」したのではない。1920年代の体制派の復権は戦中の反東条連合に始まっており、敗戦による政治史的な不連続を強調するのは一面的である。また、自由主義派と近衛―東条体制(強力な国家統制と再分配を通した国民の平等化)との対立の構図も、後者が岸信介らに継承されたことで戦後においても連続することになった。本論の元になった雨宮の『戦時戦後体制論』(1997年)では「権威主義的民主主義派」という紛らわしい用語が使われていたが、それが社会国民主義派と言い直されたのも、そうした戦後との連続性をはっきさせるためなのであろう。
 清沢が戦後においても存命で、55年体制以降の日米同盟と福祉国家の建設を見たら、はたして何とコメントしただろうか。

占領と改革―シリーズ日本近現代史〈7〉 (岩波新書)

占領と改革―シリーズ日本近現代史〈7〉 (岩波新書)