清沢洌『暗黒日記』

 清沢洌には『暗黒日記』という太平洋戦争中の政治や生活に関する雑感を記した日記がある。原題は「戦争日記」という。清沢は昭和初期を代表する自由主義の評論家で、その得意とした分野は外交、日米関係であった。彼は終戦直前の1945年5月に肺炎で他界しているが、それまでに書かれた3年半の記録は当時の雰囲気を知る上で非常に有用である。
 清沢の『暗黒日記』でとりわけ興味深いのが、軍国主義共産主義に対する彼の洞察である。この2つの立場をともに批判することは彼の自由主義的姿勢を考えれば不思議ではない。ただ、ここで大事なのは、彼が軍国主義共産主義イデオロギー上の両極として批判したのではない、ということだ。むしろ清沢にとって両者は一体のプロセスとして把握されている。日中戦争以後の戦時体制下で、「下剋上」と評されるような序列の逆転が生まれ、国民生活の格差は低い方向へと平準化されていった。例えば次の通りである。

 嶋中雄作君の話し。近くの奥さんが交番によばれ、「女中を使うなどは贅沢だ。空地があったら、産業選手に貸してやれ、掃除などしなくてもすむだろう」といったという。右のような話しから見ても、社会の根底に赤化的流れが動いていることを知り得る。(1943年6月18日)
 本日は午前は『東洋経済』に社論を書き、午后ゴルフを遊ぶ。このゴルフ場を提供せしむる運動、長野県壮年団にあり。労力不足が悩みならずや。この草原をとりて、彼らはいかにして生産せんとするや。売名か、赤化か。(1943年6月30日)
 婦人の労働者、男子に代わる。日本婦人への革命だ。今までのように奴隷的ではおれなくなる。必然にその位置も向上し、その知識もよくなろう。(1943年11月23日)
 先頃、避難荷物の検査があった。その検査官は、出入りの大工梅村であった。我らの隣組長を従えて、挙手の礼をして「よくできました」と讃めて行ったそうだ。ワイフは「今までは、勝手口から出入りするのにも遠慮しましたのにね」という。(1944年3月21日)
 戦争下に今日ほどインテリの没落を感じたことはない。――島田(丸通)の受諾により、荷物を三十個送ることになって、本日二人の荷造り人夫来たる。昨日、大工に頼んで、箱の蓋その他はことごとく整えて、ただ荷造りをするだけにした。
 正午、日本外交史研究会のために、信夫淳平博士の日露戦争当時の外交について聞いた。午后五時に帰って来ると、ちょうど荷造りが終わっていた。代金を請求するのを聞くと二百二十円だという。すなわち一個、十七円五十銭だそうだ。これは材料は全部当方で出してのことである。そうすれば一日、彼らの日給は百十円である。それが午前十時より午后四時半の間で、その間にお酒を出したり、お昼を出したりした。一時間当りの、彼らの賃金は二十円だ。信夫博士のお礼は五十円である。帝国学士院会員で、日本の最も傑出した学者の一日のお礼が五十円なのだ。それも毎日あるわけでなく、たまの依頼である。我らインテリの労働賃金は一日、最高五十円である。これが現状の知識階級と、労働人夫との比較なのだ。我らの収入はますます減少し、逆に労働者の収入は天井の如く高くなる。(1945年4月10日)(清沢洌『暗黒日記』)

 国民を全体として戦争に動員する都合から人々の意識や生活における格差が均質化されていく、あるいは国民生活の平準化を実現するために戦争が支持されてしまう、その点において軍国主義共産主義は一体的なものである、と清沢は認識していた。
 戦時下の国民は「お国」の名の下に大手を振って「下剋上」を謳歌し、「自由な秩序における格差」を是とする清沢はこれを苦々しく観察していた。

暗黒日記〈1〉 (ちくま学芸文庫)

暗黒日記〈1〉 (ちくま学芸文庫)

暗黒日記〈2〉 (ちくま学芸文庫)

暗黒日記〈2〉 (ちくま学芸文庫)

暗黒日記〈3〉 (ちくま学芸文庫)

暗黒日記〈3〉 (ちくま学芸文庫)