アフォーダンスの教育

 子どもが通っているサッカースクールで、練習の最後にいつも子どもたちがミニゲームをしています。
 フットサルコートを半面使って少人数に分けてやらせるのですが、待機中の子どもたちが遊んだりしないようにするために、コーチは彼らにキーパー役をやらせます。この際、片側サイドで待機中の子どもたち5,6人で手をつないで一群として行動するように指示します。この結果、彼らはコート外で遊んだり、ふざけたりすることなく、ゲーム中の友だちのプレイやボールの動きに意識を集中させることになります。控え中でも自然とゲームに参加させる仕組みです。
 これには感心させられました。実によくできていると思います。一般的に幼児向けのサッカースクールで取り入れられている方式なのでしょうか。子どもたちの危険行動を防止しつつ、同時に他の子どもたちのプレイを自然と観察させるように仕向ける仕組みです。教育はこうでなくてはいけません。
 心理学者のジェームズ・ギブソンの概念に「アフォーダンス」というのがあります。例えば腰くらいの高さのところに横木があれば、人は自然とそれに掴まりたくなります。廊下や道路で小さな段差があると、人は自然とそれで転びやすくなります。アフォーダンスとは、人や動物をある方向へと自然と動かしてしまうような環境の力というような意味です。サッカースクールでの「手つなぎ横列」は、自然環境や建築デザインが与えるアフォーダンスではありませんが、いつのまにか人をある方向へと導いてしまうという点で、アフォーダンス的な働きをもっているように思います。
 思うに、サッカースクールのコーチのやり方は、商業施設やテーマパークがそのように設計されているように、学校教育に関しても妥当するのではないでしょうが。学校の授業でもアフォーダンスが大切だと思います。
 授業中、喋ったり、携帯をいじくったり、寝たりする学生は後を絶ちません。そこで授業に集中しない学生を叱ったり、説教したり、あるいは世代論やゆとり教育論によって自分を慰めてみたりするのには、賛成できません。振り返れば自分自身そういうところが学生時代になかったわけでもありません。しかし、それ以上に授業はアフォーダンスをもつべきだと思うからです。
 学生が自然と耳を傾けたくなるような授業をまずは設計すべきなのです。学生を責めるよりも前に自分の授業を工夫するべきです。少人数授業もいいでしょう。各種のメディアを使ったり、グルワをさせたり、机間巡視をしたり、受講生全員の名前を暗記するのもいいと思います。学生が質問しやすい雰囲気を作ったり、出席票に感想やリクエストを書いてもらったりするのもいいでしょう。学生は授業の一方的な受け手なのではなく、教員とともに共同して授業を創造する主体である、と思うように誘導する。もちろん教員は声に抑揚をつけ、リズムよく話を展開し、明快に板書することも大事です。学生にはすぐに答えを与えず、じらしながら、集中力を持続させ、大事な答えは一拍置いてから、特定のひとりの目を見ながら話す。教える内容がどんなに高度で、学生が初学者であったとしも、理解それ自体が喜びであるような気持ち(「何かの役に立つ」からではなく、「分かる!」から楽しい)を与える授業を用意するべきです。
 こうした授業観を指してアフォーダンスというのは適切ではないかもしれません。ただ、教員による明示的な指導や学生側の自覚的な同意というチャンネルを経ることなく、授業が行われる状況それ自体が学生を自然と学びへと導くというような意味で、この言葉を使いました。
 以上のような授業運営上の留意点はとりたてて特別なものでもなんでもありません。けれども、こうした当たり前のこともしないで、責任を他(学生、保護者、時代、社会、メディア・・・)に押し付けるような教員の発言を聞くにつけ(講師室の雑談などで)、あえて書くことにしました。(11月19日記)

誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論 (新曜社認知科学選書)

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