DMCの諧謔精神

 タマニャン、モルソンのCMとつづけて諧謔に包まれた皮肉について書きましたが、同じような味わいをもつマンガに若杉公徳の『デトロイト・メタル・シティ』(DMC)というマンガがあります。
 DMCは、普段は優しく温厚でポップミュージックを愛好する主人公、根岸崇一が、どういう経緯からか、背徳的な詞と破壊的なパフォーマンスで知られるメタル系のバンド、デトロイト・メタル・シティのボーカル、ヨハネ・クラウザーII世として暴れまわる、というギャグ・マンガです。

デトロイト・メタル・シティ (1) (JETS COMICS (246))

デトロイト・メタル・シティ (1) (JETS COMICS (246))

 主人公の根岸くんは大分県の田舎町から上京してきて、「おしゃれな音楽」で世に認められることを望む二十代の青年です。けれども、彼の音楽はちっとも支持されません。当然彼は落胆します。さらに追い打ちをかけるのが、「おしゃれな音楽」とはかけ離れた邪悪なメタル系の音楽の方を彼に期待する人たちが多いということです。根岸くんは知人や家族に自分が「メタルモンスター」であることをひた隠しにしつつ、他方でクラウザーさんもその正体が「ゴボウ野郎」根岸くんであることがばれないよう必死になります。思うに、このマンガの魅力は次の三点にあります。
 ・キャラクター設定 根岸くんとクラウザーさんの人柄、外見、趣味、行動の対極性、一方から他方への豹変のもたらすおかしみ、振幅の大きさがもつ不条理さ
 ・ストーリー展開 一方が他方の顔を隠そうとするときの主人公の苦労、それに伴って翻弄される周囲、カーニバル化する状況
 ・人間観・世界観 二つのキャラは矛盾ではなく、内的に結びついているという人間把握、善良であるが故の不寛容になるという皮肉な世界観
 ここで特に注目したいのが三つ目の人間観・世界観です。根岸くんとクラウザーさんはまったき別世界の住人のように見えますが、実際には後者の攻撃的なパフォーマンスは前者の優等生的な人柄と分かちがたく結びついているように思います。

おおげさだって言われるかもしれないけど…
僕の音楽で世界が1つになればいいなって思ってた…
若杉公徳デトロイト・メタル・シティ』第4巻、白泉社、2007年)

 彼は「この間違いだらけの世界」を「僕の音楽で染めてみせる」と思うような善意のひとです。しかし、それだけに悪意は自分の外部にあると信じて疑いません。

どういうコトだ
僕はポップミュージックをやりたいのにこのバンドをやっている…
なのにアイツはやりたいワケでもないポップスを最低な理由でやり
しかも成功している
オレは全然認められてねぇのに
(…)
(前掲書)

 悪いのは自分ではなく他者にあると考える主人公にとって、周囲の批判や無理解は反省のための契機にはなりません。むしろ自分のやりたい音楽が支持されない状況に、彼は絶望し、怨嗟の声をあげるようになります。

こんな音楽(メタル)のどこがいいっていうんだ!!
なにが最高傑作だ!!
こんな音楽の好きな ポップスのポの字も知らねぇ奴等が
俺の音楽を否定しやがった……
(…)
オレの何が分かってるというんだ
メタルのメの字も知らなぇブタ共が!!
(前掲書)

 彼が類い希なる「メタルモンスター」に豹変するのは、自分の無謬性を信じ、世界の方にこそ非難されるべき性質があると疑わないからです。ここでは舞台上のパフォーマンスも露悪的な気取りではなく、掛け値なしの否定の意志によって裏打ちされたものとなります。
 ここには善良なものこそがより酷薄に不寛容になる、というアイロニカルな人間観があります。この人間観は、理性の暴力や善意の逆説を見定めるという意味で、ポストモダン的でもあり、また保守主義的なものでもあります。けれども、このマンガの魅力は、そうしたシニシズムに流れがちな人間観を、先に述べたようなキャラ設定やストーリー展開のもつ諧謔味によって、軽みのある作品に仕上げているところにあるように思います。
 本作品は第五巻以降では根岸くんの「転向問題」を扱うようでもあり、今後の展開が見逃せません。