柴右衛門狸

senzan2007-12-14

 先日訪ねた三熊山城には柴右衛門狸を祀った小さな社があります。
 この社はかつてこの山に住んでいたタヌキ、柴右衛門の話に由来します。無類の芝居好きで、海を渡り道頓堀中座にまで人間に化けて通うのを楽しみにしていた柴右衛門は、ある日、犬に正体を見破られ、葉っぱの木戸銭に怪しんでいた人間たちに殺されてしまいます。この昔話は子ども心にも悲劇的で、小さい頃は社を訪ねるたびに本気で心を痛めました。
 この柴右衛門は芝居狂いで身を滅ぼしてしまいますが、太宰治もまた恋い焦がれて身を滅ぼす悲劇をタヌキの昔話に見ています。

 カチカチ山の物語に於ける兎は少女、そうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋している醜男。これはもう疑いを容れぬ儼然たる事実のように私には思われる。
(中略)
 ぽかん、ぽかん、と無慈悲の櫂が頭上に降る。狸は夕陽にきらきら輝く湖面に浮きつ沈みつ、
「あいたたた、あいたたた、ひどいじゃないか。おれは、お前にどんな悪い事をしたのだ。惚れたが悪いか。」と言って、ぐっと沈んでそれっきり。
 兎は顔を拭いて、
「おお、ひどい汗。」と言った。(太宰治お伽草子』新潮社、1991年、278、305頁)

 おばあさんに危害を加えたタヌキに対する応報にしては、ウサギのやり方が陰湿で、嗜虐的なのは、なぜか。太宰はこのカチカチ山を美少女と醜男の寓話として解釈することで、暴力の過剰さ、悲劇的な顛末を説明しています。
 物狂いが行きつく破滅を具現するタヌキ。それにしてもなぜタヌキなのでしょう。義父が子どもにしてくれる「タヌキ汁」という遊びも(仰向けにした子どもの手足を持ち上げてブランコ状に振る。子どもは大好き)、タヌキにとってはいい迷惑な、こうした想像力の一部なのでしょうか。

お伽草紙 (新潮文庫)

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