服部龍二『幣原喜重郎と二十世紀の日本』、同『広田弘毅』

 幣原喜重郎広田弘毅は戦前の日本を代表する外交官である。著者はこの二著で城山三郎が『落日燃ゆ』で描き出したような広田に同情的なイメージを批判しつつ、幣原を20世紀の日本外交を代表する指導者として評価している。二人の評価を分かつものはなにか。幣原と広田の差は、第一次大戦後に広がった民主化の趨勢に対してどのように取り組んだか、その違いにある。こうした著者の日本外交史は、小泉以後の日本外交を考える上でも裨益するところが少なくない。
 幣原と広田の生涯は、東京帝国大学を卒業しキャリア外交官から首相にまで上り詰めた点で共通するが、その思想と政策は同一ではない。幣原は三菱財閥の岩崎家の娘と結婚したが、広田は右翼団体玄洋社の領袖月成功太郎の娘と結婚した。幣原は中国に対する不干渉政策を支持し、ロンドン海軍軍縮会議を取りまとめたが、広田は二・二六事件後に首相となり、日中戦争に際して陸軍の行動を追認した。幣原は一貫して英米協調主義的だったが、広田は満洲事変以後、アジア主義的になった。その結果、幣原は戦後首相として再登場し、新しい憲法の制定に携わったが、広田は東京裁判A級戦犯として裁かれ、処刑された。
 このように様々な面で対照的な幣原と広田であるが、ここで著者が注目するのが、外交と民主主義との関係に対する二人の態度の違いである。幣原を「大正デモクラシー期」の外交指導者とみなし、広田を「昭和ファシズム期」の外交指導者とみなすならば、前者は民主主義に対して積極的であり、後者は否定的であるように思われるかもしれない。けれども、事はそれほど単純ではない。
 実のところ幣原は「外交の民主化」に消極的であった。

 このような幣原の軌跡は、政党政治下の外交について、ある種のジレンマを思わせはしないだろうか。すなわち、外交の継続と民主主義とをいかにして両立させるかという命題である。そのことは幣原のライフワークでもあった。ここでいう民主主義には、政党内閣のみならず野党や議会、世論、報道も含まれる。とするなら、外交と民主主義はいかなる関係にあるべきなのか。外交と民主主義のあり方は、いつの時代も難しい。民意を無視して外交は成り立たないが、民意におもねる外交はやがて行き詰る。
 幣原からすると政党政治は望ましいが、同時に外交は継続性がなくてはならない。なぜなら、国家の威信にかかわるものである。政権交替によって、大きく外交が左右されてはならない。このため幣原は、外務省による外交一元化を求め、その代わりに内政には関知せずとした。霞ヶ関正統派外交と呼ばれるものである。ただし、幣原なりに内外の世論に配慮したこともあった。とりわけ排日移民法の成立に際しては、外交文書を公表していた。それでも報道とは一線を画している(『幣原喜重郎』、p.290)。

 これに対して広田は国民が対外政策に関与することに対して否定的ではなかった。けれども、近衛文麿がそうであったように、そこにはポピュリズムの危険があった。

 時代の先行きがみえなくなったとき、ともすると人心はカリスマ的な指導者を待望し、軍事力による国威の発揚を求める。国民に祭り上げられた指導者もまた、脆い政治基盤と責任感のなさから大衆に迎合しがちとなる。だが、強硬策によって政権を維持したとしても、それは一過性のものにすぎない。やがてそのつけは、政府だけでなく国民にも重くのしかかっていく。
 この時代でいえば、近衛がまさにそのような指導者であった。国民の人気に頼りがちな近衛は、世論を煽って熱狂的な支持を得た末に、日中戦争を収拾できなくなった。もともと職業外交官であり、経験に富む広田は、一回り以上も若い近衛を諌める立場になった。しかしながら、現地での停戦を否定するかのように近衛内閣が派兵や戦費調達を決定するなかで、副総理格の広田は消極的に賛成を繰り返した。
 そのころの広田は、軍部に抵抗する気力を欠いていたし、大衆迎合的な近衛の手法とも距離を保てなくなっていた。近衛流ポピュリズムの危険性に気づいたのは、むしろ外務省中堅層であった。だが広田は、部下たちの意見を受け入れなかった(『広田弘毅』、p.196)。

 要するに、幣原外交は国民世論との関係において超然として「貴族的」であったのに対して、広田外交は国民世論を利用し、迎合した点で「大衆的」であった。
 ところで、近衛や広田らはなぜ国民世論を頼みとして自らの外交政策を実現しようとしたのだろうか。それは軍部の独走をコントロールするための政治的な資源を手に入れるためである。もともと明治憲法体制は政治的アクターが分散的で、遠心的な構造をしている。そうした中で国家の意思決定を統一していたのが元老たちであったが、明治の終焉とともに彼らは次々にこの世を去っていた。その代わりに利害を集約して、意思決定を一元化するようになったのが政党政治であったが、1930年に統帥権が議会で争点化されて以後、政府は軍部の行動を効果的に制御することができなくなった。1937年に近衛文麿が国民的な人気を基礎として首相に就任したのには、このように分裂した状況を解決するためであった。
 先ほど引退を表明した小泉元首相は国民的な人気を基礎にして構造改革を実現しようとした。と同時に、国民世論に依存した政治スタイルであるがゆえに、日本外交を硬直したものにしてしまった。細谷雄一の『外交』でも旧外交を理想とする記述があったが、著者が幣原を評価し、広田を批判するのも、国民世論との関係で柔軟性を失った日本外交の現状を念頭においてのことなのかもしれない。

幣原喜重郎と二十世紀の日本―外交と民主主義

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広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書)

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