「歴史の教訓」の意味

 自宅の近所で厚労省事務次官を務めた方とその奥さんが殺されるという事件がありました。併せて元次官の奥さんが同様の手口で襲われるという事件も起きています。昨日、今日の報道では年金問題に関係した連続テロの疑いもある、ということです。
 事件現場の近くには子どもが以前通っていた保育施設や、病院があります。自分たちの生活圏で「テロ」と称されるような事件が起きたのは衝撃的でした。
 この6月には秋葉原で連続通り魔事件がありました。この時も格差社会を背景とした一種のテロであるという見方が示されました。暮らしに関する不安の高まりにもかかわらず、議会政治は党派的な争いから行き詰まり、それを尻目に高級将校が政府の方針や憲法解釈を公然と否定する現在、時代の雰囲気が昭和初期の日本に似てきたと感じるのには一定のリアリティがあると思います。実際、あの時と同じように、国民の中には時代の閉塞感を突き破ってくれそうな存在(テロリストであろうと軍人であろうと)に共感する声が少なくないようです。
 歴史家は「歴史の教訓」を言うのが好きです。自分たちの職業的な強みが過去に関する知識の所有である以上、過去と現在の「共通性」を発見し、そこから現在に対する教訓を示唆したくなるのは自然なことだと思います。過去と現在が「違う」ということなら、したがって過去が現在のモデルにならないということなら、歴史の知識がなくても言えることですから。
 しかし、だからこそ、歴史家は過去と現在の類比に関して慎重であるべきだと思います。歴史家の責務には、歴史の教訓を示すこととともに、どのような点で過去が現在と異なるかそのディテールも描くことではないでしょうか。
 上述のような昭和初期との連想に誘惑される今、その思いを強くします。