カリスマとカウンセラー

情報化によって大学や予備校の授業もデジタル化され、ネットで配信されるようになりました。
例えば慶應大学SFCでは、学生でなくても登録すれば誰でも自由に授業を聴講することができます。また早稲田大学では、所定の手続きでオンライン上の授業を見れば、教室に行かなくても単位の取得が可能です。代々木ゼミナール河合塾でも、大教室で授業を受けるのではなく、自宅にいながら、あるいは予備校の個別ブースで一人で授業を視聴し、自分のペースで学習していけるような仕組みが提供されています。ネット向けに授業をパッケージ化するこうした大学・予備校の取り組みは、けっして例外的なものではありません。
この結果、教員が授業をライブで行う必然性は小さくなりつつあります。学生は自宅に居ながらいつでも授業に出席できますし、一度コンテンツ化してしまえば教員も毎年同じ授業をやる必要がなくなります。この方向を極端に推し進めれば、空間的に区分された「学校」やある種の人間関係を構成する「教室」、さらには同一科目の「先生」は、不要になります。SF小説にはすでにこうした「未来」に関する伝統がありますし、ITバブルはこの夢を一般的なものとしました。放送大学サイバー大学はその実例です。
それでは将来、「学校」や「先生」はいらなくなるのでしょうか。私は今すぐにいらなくなるとは思いません。けれども、学校や教員の役割が今と同じままだとも思いません。
大手の予備校では無数にある個別ブースの中で受験生たちがそれぞればらばらに自分に必要な授業を視聴している、という光景が見られます。それは実に孤独な作業です。もともと受験は孤独に耐える精神的なタフさが求められる通過儀礼でしたが、このようにユビキタス化された教育は、さらなる孤独を子どもたちに強います。おそらく相当の自己規律、セルフ・マネジメント能力がなければ、この種の教育は成功しないでしょう。いつでも、どこでも、一人でもという自由度の高さは、それだけ本人の自律性が要求されるからです。たぶんそうした教育を享受できるのは、すでに家庭において十分に自己規律を習得させられた、一部の子どもだけのような気がします。
だから、その他の主体性が不十分な子どもたちには、やはり学校や教室や先生は必要であり続けるでしょう。学校は子どもたちのスケジュール管理をしてくれますし、教室は他者による承認欲を満足させてくれますし、先生はメンタル面でのサポートをしてくれます。普通のひとの場合、自分で考え、自分で行動するような主体の形成はこうした規律や帰属先の強制によってのみ、実現します。人間の存在論的な保障は、自己決定ではなく、先験的であることにその条件があるからです。
しかし、昨日のエントリーで述べたように、情報化は、子どもたちから主体形成のための帰属感をも奪い取っています。ネットへのアクセス可能な情報端末が普及したことで、子どもたちは筒井康隆の『家族八景』を地でいくような、露悪社会に放り込まれてしまいました。情報化によって教育を担当する先生が少数でよくなるのなら、生き残るのは一部の「カリスマ教師」や「卓越した研究者」だけということになるでしょう。情報化によって子どもたちの自我形成が不安定になるのなら、教員により多く求められる役割は「お友達」と「カウンセラー」ということになるでしょう。
情報化は学校や先生を滅ぼしはしないでしょう。けれども、情報化は少数のカリスマ教師と多数のカウンセリング教員とに「先生」を二極化させてしまうかもしれません。