酒井順子『儒教と負け犬』

本書は、「負け犬」とは東アジア型近代化の産物ではないか、という仮説を上海やソウルでの聞き取りを資料にしながら、議論したエッセイです。彼女のいう「負け犬」とは「30代以上・独身・女性」のことで、仕事があり、お金があって、男遊びもするけれど、なかなか結婚できず、「勝ち犬」既婚女性から軽侮され、自分自身も卑下する気持ちを拭いきれない女性のことです。
この「負け犬」という言葉は著者の酒井順子が2003年にベストセラーになった『負け犬の遠吠え』で有名になった表現で、著者自身もまた1966年生まれの「負け犬」と自称しています。
今回の新著『儒教と負け犬』では、こうした「負け犬」の増加が東アジアの都市に共通する現象であるという発見から、その原因としての「儒教」が注目されています。

つまり、子供を産むなら結婚してから、という意識が強いこと。夫婦が同じくらい働いているのに、家庭や子育ての負担は妻ばかり重くなること。妻の方の収入が上だったりすると、それを負い目に感じる傾向があること。子育てを他人に任せることに、罪悪感が伴うこと。……それらの意識は、男が外で女は内、男が上で女は下、という儒教の影響が今も残っているからではないでしょうか(酒井順子儒教と負け犬』講談社、2009年、p.15)。

19世紀以来の近代化によって男尊女卑の「儒教」があった東アジアにも男女平等の思想が導入されました。明治維新から140年がたったとはいえ、「儒教」的な規範はいまなお執拗です。この結果、一方で自由で平等な男女関係を理想としつつ、他方で支配と依存の男女関係をよしとする、ハイブリッドな価値観が生まれました。
「負け犬」がこうした東アジア型近代化の産物であるというのは、近代化によって女性の教育や社会進出が進み、女性よりも「上位」の男性が相対的に減少したにもかかわらず、それでもまだ上方結婚(学歴や収入などの点で男性が上位である結婚、hypergamy)を支持する女性が多いからである、と著者は言います。
このように「儒教」こそ「負け犬」の原因であると喝破した著者は、脱「負け犬」のための方法として、次の2つの道を提案しています。
(1)草食系男子と結婚する
(2)結婚を完全に諦め、「負け犬」意識を払拭する
まず(1)は女子上方婚を否定し、自分よりも学歴や収入、リーダーシップの点で「下位」の男性(つまり草食系男子)と結婚する道を勧めるものです。この選択肢は、赤木智弘が主張する「男性にも主夫になる権利を認めよ」という提案と一致していて(「私は主夫になりたい」『若者を見殺しにする国』2007年、双風社)、したがってある種の階層格差是正少子化対策にもなりうる道です。
これに対して(2)は非婚化を肯定する道です。これは結婚という制度自体を否定するものですから、(1)よりずっと伝統に対しては挑戦的な選択肢です。他方で、自分より学歴や収入の低い男と結婚をするくらいなら、結婚しない方がまだましだという立場でもありますから、それだけ男尊女卑意識(つまり「儒教」)に束縛されているともいえます。ラディカルな外見のわりには、内面はずっと保守的という感じです。
さて、著者のいう「負け犬=東アジア型近代化論の産物」という議論には、もちろん、いろいろ突っ込みどころがあります。
まず「儒教」は女性の近代化において積極的に貢献した面もあるということ。本書にもあるように、東アジアの家庭では子女の教育に大変な資源を投下します(pp.55-58)。女性の高キャリア化の前提には女性の高学歴化もあるわけですから、「儒教」が一概に「反近代的」というわけではないでしょう(「いわゆる「儒教的近代化論」)。
次に上方婚意識は「儒教」に限定されないだろうということ。やはり本書でも言及されているニューヨークを舞台にしたアメリカ・ドラマ『セックス・アンド・シティ』に登場する女性や(p.23)、また「嫁にするなら日本人」のような一部の白人男性の意識は、広い意味での「男尊女卑」的なものでしょう。たぶん進化心理学的には女子上方婚はかなり広く観察される現象ということになるはずです。
そうはいっても、選択肢(1)の草食系男子との結婚という道は、上述の赤木智弘の批判に対する一種の応答になっている、という点で興味深いものがあります。男女格差よりも、男男格差(正社員とフリーター)や女女格差(既婚者と未婚者)の方が、少なくない30,40代の個人にとってはずっと切実な問題ということなのでしょう。
これまで分断統治されてきたバブル世代のキャリア女子とロスジェネ世代のフリーター男子が、本当に連帯できるのか。目が離せないところです。

儒教と負け犬

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