細谷雄一『外交』2007年

 イギリス外交史の俊英になる本書は、古代から今日までの「外交」観念と技術の歴史を叙述しつつ、現代世界における「外交」の可能性を探った著作である。本書は、外交学の入門として簡明であるとともに、確信せるヨーロッパ中心主義の主張である点で、興味深い論点を提供している。
 著者が理想とする「外交」はいわゆる旧外交である。旧外交は古代ギリシアに発し、19世紀ヨーロッパでその完成を見たが、第一次大戦以後に新外交が登場してからは徐々に通用しなくなっていった。旧外交は国家理性や秘密交渉を重視するが、それを可能にしたのは国家の自立性、諸国家の同質性、外交の貴族性などのヨーロッパに固有の歴史的な条件だった。これに対して新外交はイデオロギーや公開外交を重視したが、それを要求したのは国家の相互依存性、諸国家の多文明性、外交の民主性といったヨーロッパ外の世界も含めた外交の新しい条件だった。
 著者が旧外交から今日的な可能性を探ろうとするのは、新外交が結局第二次大戦を防ぎえなかったからであり、その後の外交も、無定見な世論や感情的なナショナリズムに振り回されるか、そうでなければイデオロギー的に硬直してしまっていて、現実的で柔軟な合意形成の機会を奪ってしまっている、と考えるからである。その意味で本書はニコルソンやカーの問題意識を正しく継承している。
 けれども、本書のそうした議論はかならずしも説得的ではない。第一に旧外交の今日的な意義が明確ではない。過去と現在の歴史的な文脈の差を超越して通用する意義を旧外交に求めるあまり、「外交」はほとんど「紳士的な交渉」というくらいの意味にまで切りつめられてしまっている。しかし、「紳士的な交渉」はなにもキャリア外交官だけではなく、ビジネスやメディア、NPOなどの業界においても規範とされるような「外交」なのではないだろうか。第二に旧外交の負の側面であった帝国主義に対する評価が完全に捨象されてしまっている。そもそもレーニンやウィルソンが新外交を掲げたのも、旧外交のもつ洗練された交渉の裏面としての不寛容な他者支配(帝国主義)を批判するためではなかったか。
 しかし、こうした批判は著者にしてみると的を射たものではないかもしれない。著者の旧外交理想論は、旧外交を相対化する数々の試みを承知した上であえて提示されたものであり、いわばポストモダンなヨーロッパ「中心」主義とでもいうべきものかもしれない。
 個人的な見方を述べるならば、ウィルソン自身のフレームアップにもかかわらず、1920-30年代に生じた変化というのは、新旧二種類の外交の「交替」ではなく、ヨーロッパの歴史的な外交に対して、アメリカ(ウィルソン主義)や日本(アジア主義)、ロシア(社会主義コミンテルン)などそれぞれの歴史的な条件に立脚した外交が台頭し、並列するようになったことではないか、と思われる。問題は、こうした外交を並列させるような新しい国際秩序をどのように把握するかという点なのだが、その話はまた別の機会に書いてみたい。

外交 (有斐閣Insight)

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