北岡伸一『国連の政治力学』

 本書は一人の政治学者が大学から国連代表部次席大使に転じてから2年半のあいだの経験に基づいて書かれた国連論である。
 全体は4部に分かれており、国連という組織の概観、代表部の日常的な業務、安保理改革の経緯、国連と日本外交の未来がそれぞれのテーマである。
 ところで、先週、アメリカは、日本の反発にもかかわらず、北朝鮮テロ支援国家とみなす指定の解除を決定した。そこで、ここでは北朝鮮に対する国連決議の経緯と日本の対北朝鮮政策を論じた終章について、感想を述べてみたい。
 著者によれば、核兵器の開発を進める北朝鮮に対して関連諸国がとりうる外交オプションは次の5通りである。
 1.何もしない
 2.制裁の強化
 3.関与政策
 4.外科手術的爆撃
 5.日本の核武装
 このように選択肢を整理したうえで、著者は2の「制裁」と3の「関与」の組み合わせが有効であると結論している。1の「何もしない」のは北朝鮮に対して弱腰という誤ったシグナルを与える。5の「日本の核武装」は東アジアの勢力バランスを不安定にするし、核武装競争は国土の狭い国には不利である。4の「外科手術的爆撃」はその代償にソウルを火の海にしかねない。結局、制裁と関与の両方を適宜組みあわせることが現実的選択となる。
 この議論の中でとりわけ興味深かったのは、著者が過去の日本の事例と現在の北朝鮮とを類比している部分である。著者は日本政治外交史の第一人者であり、この類比には説得力がある。例えば「何もしない」政策に関して、著者は1941年の日本の行動様式を参照している。当時の日本は「軍事国家」であり「独裁国家」であった。そういう種類の国家では、「相手の不作為を弱さの現われと考える」し、「正確な情報がトップに上がらないことが少なくない。トップを怒らせることを、周囲が恐れるからである」(pp.282-283)。
 また著者は「関与政策」についても1945年の日本を参照している。北朝鮮が最も望んでいるのは体制保障であるが、それは45年夏の日本が求めた「国体護持」と同様である。日本が原爆を投下されてもなおポツダム宣言の受諾を躊躇ったのは、「御前会議において『国体護持』が認められているかが、議論の焦点になった」(p.285)からであった。しかし、現在、アメリカも日本もその種の「国体護持」を明示的に認めることはけっしてないだろう。
 著者は触れてはいないが、「制裁の強化」についても1939年から41年の日本の行動様式は参考になると思う。アメリカは日米通商航海条約を更新せず、さまざまな資源の禁輸を実施することで、日本の侵略を抑止しようとした。駐日大使のG.グルーはこれが危険すぎる駆け引きであると警告していたが、国務省では、自暴自棄から戦争に踏み切った不合理な国家など聞いたことがないと断言したS.ホーンベックの見解が有力だった。カナダの外交官E.H.ノーマンも、日本の外交指導者は幕末以来一貫して合理的だったから、列国が共同してシグナルを送れば日本も従うであろう、と予想していた。けれども、実際には日本は「ジリ貧」よりは「一発逆転」を期して戦争に突入した(細谷千博『両大戦間の日本外交』)。
 著者は、先日報告書が出た「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」のメンバーの一人であり、また北京オリンピック前には報告書が出る予定の「日中歴史共同研究」の日本側座長でもある。そうした斯界の第一人者が、現在の北朝鮮問題を過去の日本問題と類比し、そこから「歴史の教訓」を提示しているのは、非常に意義深いことだと思われる。

国連の政治力学―日本はどこにいるのか (中公新書)

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両大戦間の日本外交―1914‐1945

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