五百旗頭真『日米戦争と戦後日本』

 著者は日本を代表する日本外交史の専門家であり,優れた後進を育てる伯楽でもある.本書は「米国の占領政策が戦後日本史にどのような意味を持ったかを鳥瞰しよう」(p.281)という企図のもと,アメリカの対日戦後計画の立案からサンフランシスコ講和条約締結までの過程を簡潔に叙述したものである.以下では覚書として本書で関心を惹かれるいくつかのポイントに触れた上で,2,3の感想を述べたい.

日米戦争と戦後日本 (講談社学術文庫)

日米戦争と戦後日本 (講談社学術文庫)

 まず第1章では戦中における対日戦後計画の立案過程が叙述される.著者によれば,戦後を予想した対日政策には二つの対極的な原理が存在していた.すなわちカサブランカ会議(1943.1)で決定された「無条件降伏」方式(それは日本社会の改造を含意する)に示された垂直原理と,大西洋憲章(1941.8)で決定された普遍主義的な理念に示された水平原理である.戦中の対日計画案には,この二つの原理を両極として(1)国家壊滅・民族奴隷化論(カルタゴ方式),(2)隔離・放置論(S.ホーンベック),(3)介入変革論(H.アームストロング(『フォーリン・アフェアーズ』)),(4)積極誘導論(H.ボートン),(5)介入慎重論(G.ブレイクスリー,J.バランタイン),(6)日本帝国温存論(勢力均衡論)の六つの立場が存在した.けれども,早い段階で両極論(1,2,6)は現実的ではなないとして斥けられる.残った三つのうち,(3)は世論の強い支持とローズヴェルト大統領の方針を反映したものであり,(5)は国務省に集った知日派の立場,(4)はその中間であった.国務省の最終的な方針はこの(4)と(5)のラインで決定された(1944.4).積極的に介入せずとも日本の「リベラル」「穏健派(若槻礼次郎木戸幸一宇垣一成)に期待できるとした知日派とそれを支援したG.グルー(前駐日大使)らの努力が奏功したからである.
 次の第2章では戦争末期において日米双方の強硬派が背景に退き,早期終戦で決着する過程が叙述される.1945年前半の硫黄島,沖縄での激戦(日米の死傷者比は1:1)はアメリカに,東京空襲(一夜で10万人の犠牲者)は日本に,それぞれ本土決戦のコストを予想させ,双方を早期終戦へと促すことになった.早期終戦を実現するためには,日本にとっては天皇制が維持されるという見通しが,アメリカにとってはその天皇制が民主化の妨害にならないという見通しが必要であった.バーンズ国務長官によってポツダム宣言において天皇制を保証する部分は修正されたが,H.スティムソン陸軍長官やグルーの働きかけで「日本政府は日本国民の内に民主的傾向が復活され強化されるよう,それに対する一切の障害を除去せねばならない」という条項は採用された.これに対して鈴木貫太郎首相は当初「黙殺」というコメントを出したが,御前会議において昭和天皇が受諾を決定する機会を作り,天皇とともに終戦へと導いた.
 第3章ではアメリカによる日本の占領期を4期に分けた前半期の過程が叙述される.二度まで核兵器が使用されたとはいえ,早期の停戦によって日本は米ソによる分割統治を受けずに済んだ.1944年に確定した国務省の計画はD.マッカーサーの下で「ほぼこの文書が示した筋道どおりに,実際の日本占領は行われ」(p.192)た.すなわち(1)非軍事化(1945-46年),(2)民主化(1946-47年),(3)経済自立化(1949年-)である.この後に1950年の朝鮮戦争を受けて(4)西側参加という段階が加わる.戦前の指導者の多くが排除され,軍隊が解体された占領下とはいえ,行政機構の大半は温存されたため改革には日本の主体性が発揮される余地があった.一方で財閥や内務省の解体(地方自治法自治体警察)のようにGHQからトップ・ダウン的に改革されたものもあったが,他方で労働組合法や選挙法のように官僚や議会のイニシアチヴによって改革されたものもあり,その中間に農地改革や憲法9条のような日米合作的な改革があった.
 第4章では冷戦の始まりによってアメリカが占領政策を変更した後半期(いわゆる逆コース以後)の過程が叙述される.当初日本の占領はもっと短期で終了するはずであった.けれども,グローバルな冷戦状況の始まりに際して,G.ケナン国務省政策企画室長は1947年3月の講和案を批判し,西側陣営として経済復興と再軍備を行うことを主張した.これに対してマッカーサー再軍備には反対していたが,1948年10月にNSC13/2が策定されると吉田茂首相とJ.ドッジ経済顧問に経済再建を委ねた.さらに朝鮮戦争を背景にJ.ダレス特使が再軍備を伴う講和を提案してくると,吉田はあらゆる回路(世論,社会党マッカーサー)を使って抵抗し,軽武装を認めさた.こうして結ばれたサンフランシスコ講和条約日米安保条約によって,戦後日本の基本路線となる親米通商国家の方針が形作られた.
 最後の終章では1950年代後半の保革の激しい対立の結果,吉田が敷いた経済中心主義が合意の得られる戦後日本の路線として池田勇人首相よって決定的となる過程が叙述される.
(以下感想)・本書の前半はこの分野の第一級の研究である『米国の日本占領政策』と内容的に重なるためか,洞察も鋭く,叙述も自在である(例えば比喩の多用.FDRの陰謀論に関する「背中を向けた被害者」の比喩,硫黄島の「捨屈の戦法」,押しつけ憲法の「熟年離婚夫」など).
アメリカ外交史の文脈でみると,対日政策を冷戦による不連続よりも日米戦争からの連続で評価する視点が興味深い(「冷戦があろうとなかろうと,大枠において(3)(4)とも自然なコースであった」(p.196)).これは言い換えれば,戦後日本の形成を冷戦ファクターよりも総力戦ファクターで説明することを意味する.国務省知日派に関する議論は日本研究の成立史としても読めるが,この点で著者は地域研究の成立を総力戦の文脈に置いていると考えられる.他方で著者は「知日派はこぞって,天皇制はアメリカにとって好ましい戦後日本を再建するうえでの貴重な『資産』であることを力説した」(p.63)とするが,そうであれば「知日派」でありながら天皇制に反対していたH.ノーマン(アメリカ人ではないが)のケースをどう考えるかが問題になる.つまり,知日派の言説が可能となるような条件を問うておく必要があるように思う.
・日本外交史の文脈でみると,敗戦から復興までの過程をヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」で把握しているのが興味深い.たしかに占領改革はアメリカによって強制されたものだが,それに忠実に従った結果,日本は「主人」をも脅かす経済成長を遂げることができた.この点で著者は師の高坂正尭と同じように吉田ドクトリン(通商国家路線)を肯定的に評価する.他方で小泉首相が本書を「歴史の教訓」としてアフガニスタン復興に活かそうとしたという「文庫版あとがき」のエピソードを読むと,「奴隷」ではなく「主人」の側に立とうする日本外交の変化(それは同時に吉田ドクトリンの放棄でもある)に著者が何を思うのか,その点にも関心が惹かれるところである.