田んぼ遊び

senzan2009-06-15

帰省中は田植えばかりしていたわけではなく、代かきをしている祖父母の周りでいろいろ遊んでいました。
水田に入って泥をつかんでみたり、泥のかたまり投げて波紋を作ってみたり、アメンボやゲンゴロウをつかまえたり、土で水路やダムを作ってみたり。
ところで、この地域でも少子高齢化が進み、あまり子どもはみかけなくなりました。
そのせいかどうか分かりませんが、樋抜きの管理人の老人にうちの子どもはずいぶんかわいがられました(かわいがり?)。「田んぼで泳げ」とか「川に飛び込め」とか。うちの子も、初対面の高齢者からの不条理な命令を聞いて、最初は戸惑っていましたが、徐々にその種のコミュニケーションの面白さが分かってきたようで、最後には激しく流れる水の中で嬉しそうに正座をして、彼に応えていました。
その人は、たぶんもう80歳前後にはなるはずですが、鍬を片手にスーパーカブに乗って、山から谷まで縦横無尽に巡視していました。こういう世代によって日本の農業が今でもなんとかなりたっているのだな、としみじみ思いました。

田植え

代かきから数日後、いよいよ田植えが始まります。
かつては人間の手でひとつひとつ植えていたようですが、私が子どもの頃にはすでに機械化されていました。もっとも、今でも田植え機の入らないような場所では、最終的には人力が頼りです。
今回の帰省では樋抜きの当日だったため、本格的な田植えは行いませんでした。代かきしたばかりでは水田土壌が安定しておらず、稲の苗が根付かないためです。けれども、折角の機会なので、子どもには手で少しだけ植えさせてもらうことにしました。
からして農業などきちんとやったことがありません。ましてや郊外育ちの子どもには見よう見まねが精一杯です。腰を落としすぎておしりのパンツをまっくろにしたり、はねた泥が顔に点々とついていたり、悪戦苦闘しましたが、それでもお米づくりに少しでも参加できた満足感はあったようです。彼が植えた分を指して、私の母親が「これでご飯一杯分、これで一合」などと言ってくれたので、ニコニコしていました。
昨年は、春に育苗箱に種籾を入れる作業を、秋に稲刈りを体験しました。今回の田植えと併せて、これで米づくりに関する節目は一通り体験したことになります。普段のメンテナンスにはまったくの無関与ではありますが、それでも毎日食べているお米がつくられるプロセスを垣間見ることで、食べ物が餌のように上から降ってくるものではなく、その向こう側にある作り手や莫大な手間があってできているものだ、ということに子どもが思いをはせてくれるようになれば、と思います。

樋抜き

senzan2009-06-13

ため池から一斉に放水して、それぞれの田んぼに水を導くことを「樋抜き」と言います。これは実家のあたりの農家にとっては1年のうちでも屈指のイベントで、家族、集落総出で作業に当たります。
香川の満濃池でもやはり6月の中旬に「ゆるぬき」といって同様の行事を行うそうです。
http://www-gis2.nies.go.jp/oto/data/scene/index.asp?info=82
樋抜きは代かきのために行います。代かきとは、田植えの下準備として、田んぼに水を入れ、トラクターなどで土と水を攪拌し、水田を作ることです。ため池の水は貴重な資源なので、地域共同体の管理の下、樋抜きからそれぞれの田んぼへの導水が進められます。この際、何人かの熟練の管理人が地域を巡回して、適宜、田んぼの取排水の調節をしたり、代かきを行っている各人に作業の順番やペースに関して指示を出したりします。
これら一連の作業をこなすために農家の人たちは早朝の5時頃から活動を始め、日が暮れる7時近くまで働きます。共同体的な作業であるため個人の勝手な行動は許されませんし、また田植えにはタイミングはありますからのろのろやるわけにもいきません。
こした理由で樋抜きは農家にとって大きなイベントになっています。また他方でこういう作業の存在が、農業への新規参入を阻む非経済的障壁にもなっているのだと思います。

ため池

senzan2009-06-12

先日帰省した時はちょうどため池の樋抜きをし、田んぼに水を導いて、代かきをする日でした。
そこでまず農業用水の供給源であるため池を訪ねることにしました。どこから水が来ているのか、知るためです。
もともと瀬戸内海沿岸は降雨が少なく、大きな川も限られているため、農業用水を確保するためにため池が発達していました。特に兵庫県は日本一のため池大県(?)です。兵庫県のウェブサイトによると、県内のため池の数は43,734で、2位の広島県(21,010)の倍以上もあります。また県では、こうしたため池の価値や可能性を見直して、「ため池整備構想」なるものを進めているそうです。
http://web.pref.hyogo.jp/af08/af08_000000016.html
http://web.pref.hyogo.jp/af08/af08_000000032.html
実家のあたりにも複数のため池があります。大池、新池、能楽池などです。これらは山麓の谷間を横切るようにして堤を築き、貯水するタイプの谷池(山池)です。谷間に作り、その下流の田んぼに導水するわけですから、当然、ため池は坂道をずっと上ったところにあります。米づくりに欠かせないとはいえ、その管理・保守は楽ではありません。
ため池には農業用水以外にもいくつかの働きがあります。治水、防火用水、レクリエーション、生物の多様性の確保、それから動物性たんぱく質の供給源でもあります。一年に一度、ため池の水を完全に排水して、池で育てたコイやフナをつかまえることがあります。今はどうか知りませんが、私が小さな頃は大の大人がどろんこになって大きなコイと格闘している様子を見ました。
香川には空海が9世紀に修築した満濃池というのがあります。また今年は松山で15年ぶりの渇水で、今日からは夜間断水が実施されるということです。雨の少ないこの地域の人間にとっては、ため池は昔からとても馴染みのある人が作り出した自然の風景です。
http://mainichi.jp/area/ehime/news/20090610ddlk38040690000c.html

東京・神戸ルート比較

senzan2009-06-11

この前の週末に実家に帰省してきました。
子どもに田植えを体験させるのと、夏休みの下準備をするためです。
今回は羽田から神戸まで飛行機を利用したのですが、この機会に新幹線と飛行機を使った場合の比較をしてみたいと思います。
・所要時間
新幹線:全体で7時間くらい。新幹線(JR東海)自体は3時間半程度。
飛行機:全体で6時間くらい。飛行機(スカイマーク)自体は70分程度。
・料金
新幹線:親子2名、往復で44,000円(東京・新神戸間では往復割引が適用されない)。
飛行機:親子2名、往復で36,200円。
・アクセス
新幹線:埼京線京浜東北線を乗り継いで東京駅まで。新神戸駅からは地下鉄で三宮駅まで出て、高速バスに乗る。新神戸から直通バスに乗れる場合もあり。
飛行機:埼京線京浜東北線東京モノレールを乗り継いで羽田空港まで。神戸空港からはポートライナー三宮駅まで出て、高速バスに乗る。空港から直通バスに乗れる場合もあり。
・長短
新幹線:
長所=本数が多く、スケジュール調節がしやすい。定刻運行。乗り損ねてもカバーできる。悪天候にも強い。車内で移動の自由がある。車内でまとまった仕事ができる。
短所=時間がかかる。料金が高い。
飛行機:
長所=時間が短い。料金が安い。眺めがよい。搭乗前に休み時間がとれる。
短所=機内の閉塞感が強い。アクセスで乗り継ぎ、垂直移動の機会が多い。悪天候などに脆弱。遅延しやすい。本数が少なく、スケジュール調節がしにくい。
・まとめ
 地方出張の場合、東京・大坂では新幹線、東京・福岡では飛行機が優勢で、東京・広島では甲乙つけがたいという評価が一般的だと思います。だから広島より手前の神戸でも、新幹線利用が普通です。しかし、神戸の場合、飛行機に有利な点もいくつかあります。神戸空港新神戸駅ではアクセスに大差ないこと、スカイマークを利用すれば安上がりであること、などです。
・その他の感想
今回は子どもが小学校に入ってから初めての帰省でした。保育園のように、学校を休ませるわけにはいかないので、金曜日に帰宅してから出発し、日曜日には戻ってくるという2泊3日のスケジュールです。この強行軍でも子どもが体調を崩すことなく、対応できることが分かったのは今後の参考になって、よかったと思います。
 昼過ぎにさいたまを出るような場合には、最終的な所要時間が短くて済む、飛行機の方がよいように思います。
 神戸空港からの直通バスへの接続を期待したのですが、飛行機が15分ほど遅れたため、間に合いませんでした。遅延が起きやすいのは飛行機の弱点でしょう。しかし、神戸空港自体は市街地から近く(ライナーで20分)、空港内も移動しやすいので(どこでも5分以内)、便利だと思います。
 低学年児童に対する付き添いサービスがあるのも、飛行機の魅力です。新幹線で一人旅をさせるのにはまだ不安がありますが、飛行機ならスタッフによる付き添いをお願いできるので、親は搭乗口までの送り迎えだけで済みます。夏休みに子どもだけを実家で長期間滞在させる際には便利でしょう。この点、今回のケースは子どもの対応力を見る上で参考になりました。

冤罪はどこまで受忍されるべきか?

昨日、足利事件で有罪が確定していた受刑囚が釈放されました。改めて行われた鑑定の結果、遺留物と受刑囚のDNAが一致しないことが明らかになったのを受けて、東京高等検察庁が釈放を決断したためです。
http://mainichi.jp/photo/news/20090604k0000e040084000c.html
ところで、死刑制度に反対する有力な根拠として、冤罪の可能性があります。罪もないのに罰せられれば人生は台無しです。ましてや死刑が執行されてしまうと取り返しがつきません。これまでも死刑判決を受けながら、後に冤罪であることが判明した事例はいくつもあります。こうしたリスクがあるにもかかわらず、なぜ死刑制度は存在するのでしょうか。
この問いに対する解答の一つが、多数の重罪者を処刑するためには、少数の冤罪は受忍すべき犠牲である、というものです。重罪者を処刑する利得と、冤罪被害者が犠牲になる損失とを比較したとき、前者の方がより大きいという判断があるわけです。
例えば日本では2008年に5,155人のひとが交通事故で亡くなっています(『国土交通白書』平成20年度版より)。もし自動車がこの国からなくなれば、この人たちは死なずに済んだはずです。もちろん自動車以前の社会に時間を巻き戻したとしても、それの機能的等価物(馬車とか駕籠とか)による犠牲者は避けられないでしょう。しかし、そうだとしても自動車よりも死亡事故が少ないだろうことは十分想像できます。
http://www.utms.or.jp/japanese/condi/jiko.html
またアメリカでは2007年に10,086人のひとが銃による犯罪でなくなっています(『合衆国の犯罪2007(CIUS, 2007)』FBIより)。もし銃がこの国からなくなれば、この人たちは死なずに済んだはずです。もちろん銃規制が厳しい国でも、それの機能的等価物(ナイフとか鈍器とか)による犠牲者はいます。しかし、そうだとしても銃を使った殺人被害より少ないことは間違いありません。
http://www.fbi.gov/ucr/cius2007/offenses/expanded_information/data/shrtable_07.htm
日本にしてもアメリカにしても、自動車や銃による死者が毎年4桁を超えます。それでもこうした犠牲者を受忍しているのは、それぞれの国で自動車や銃によって得られる利得がより大きいと考えられているからでしょう。2009年3月、日本の上場企業のなかで売上高上位10社のうち3社は自動車会社で、1位はトヨタ自動車でした。また、2008年6月にアメリカ連邦最高裁はワシントンDC対ヘラー裁判において、個人が銃を所有することは憲法的な権利であると初めて判断しました。日本人の多くはアメリカ人ほど銃による犠牲を受忍しませんが、しかし、自動車による犠牲は受忍しています。
http://markets.nikkei.co.jp/ranking/keiei/uriage.aspx
http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2410868/3079314
これと同様の計算が死刑制度の存置に関しても働いているのでしょう。1990年以降の日本における死刑執行数は2008年までに71人です(日本弁護士連合会の資料より)。これに先立つ80年代に再審された結果、冤罪であることが判明した死刑囚は4人います(免田、財田川、島田、松山事件)。この他にも死刑が執行された人で冤罪だった人はいたかもしれませんし、いなかったかもしれません。それは分かりませんが、かりに冤罪だったひとがいたとして、何人までなら受忍すべきで、何人以上なら受忍できでないというのでしょうか。あるいは、重罪者を処刑することの重要性がどの程度であれば、冤罪被害者は受忍すべきなのでしょうか。
http://www.nichibenren.or.jp/ja/committee/list/shikeimondai/shiryou.html
この5月から新しく裁判員制度がスタートしました。順調にいけば、7月には新制度が適用された最初の公判が開かれるそうです。これは、こうした死刑制度がはたして割に合うものなのかどうか、国民の一人一人に考えさせるきっかけになるでしょう。というか、そうなってほしいと強く思います。逆に、もし裁判員制度が一部に危惧されているような「人民裁判」のようなものになるとしたら、一体、この国でどうやって子育てをしていけばいいのか、本気で反省することになりそうです。
http://d.hatena.ne.jp/senzan/20081023

自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47)

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市民と武装 ―アメリカ合衆国における戦争と銃規制

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文楽の普及

古典芸能に初めて触れる機会にはどのようなものがあるでしょうか。身近な生活の中にないのなら、それはメディアや教育を通じてということになるでしょう。
第一にメディアを介して文楽に触れるケースがあります。この場合、まずなによりも指を屈すべきなのがNHK教育の番組です。「芸能花舞台」や「日本の伝統芸能」はもちろん、たまの「芸術劇場」も見逃せません。NHKには文楽に造詣の深いアナウンサーもいます。大御所の山川静夫はもちろん、何冊も本を書いている葛西聖司大阪弁でインタビューできる小寺康雄らです。
また文楽はいくつかのパッケージで販売もされています。最近、豊竹山城少掾が語り、吉田玉男も遣る『菅原伝授手習鑑』通し狂言がDVD化されました。DVDボックスで全4枚セットはファン垂涎の的です。もちろんCDでも、住大夫、綱大夫、錦糸、清治、燕三らの義太夫節、三味線が収録されたものがあります。
演者以外による普及活動では、先の山川静夫の著作や赤川次郎の『赤川次郎文楽入門』、いとうせいこうによるトークなどがあります。いとうは今年から日本芸術文化振興会の専門委員会委員になったそうです。また『サライ』や『怪』などの雑誌が特集を組むこともあります。
第二に学校の課外授業を通して文楽に初めて触れる場合もあります。平日の昼間の部にはしばしば高校生の団体が国立劇場に来ています。また12月の文楽鑑賞教室には中高生はもとより、小学生も先生に連れられて来場します。ここでは太夫・三味線・人形遣いの三業自身による口語的な解説があったり、「寺子屋の段」のような有名な演目がかかったりします。
三浦しおんの『仏果を得ず』でも、主人公が文楽に出会ったきっかけは高校時代の修学旅行でした。主人公の不良高校生は人間国宝太夫とのメンチ切りに負けて、この道を志しました。
第三に夏休み文楽特別公演というのもあります。これは大阪の文楽劇場独自のもので、昨年は西遊記、今夏は日本のお化けがテーマになっています。これ自体は子ども向けですが、夏は夜の部も遊び心のある演目が用意されていて、馴染みのない大人にとっても敷居が低くなっています。
第四に地方で継承されている人形浄瑠璃です。大阪を中心に発達した文楽以外にも、これと同様の形式をもった人形浄瑠璃が日本各地に存在しています。例えば淡路人形浄瑠璃や徳島十郎兵屋敷では常設の小屋でいつでも人形浄瑠璃を楽しむことができます。
三浦周太郎は文楽の源流を尋ねて淡路を旅したときのことを『続 文楽の研究』に記録しています。1929年ころの話です。現在でも、文楽では聞けない女義太夫が淡路では活躍しています。
第五に歌舞伎などで演奏される竹本があります。これは文楽ではありませんが、義太夫節や三味線に触れる機会の一つになっています。竹本では、人形を人間に入れ替えて、義太夫節を語ります。歌舞伎の場合、会話は生身の俳優がやり、地の文は義太夫が語ります。最近では人類学者の船曳健夫がこの竹本をやっています。
このように文楽はまだまだマイナーな古典芸能ですが、関係者やファンは地道に普及に努めています。

赤川次郎の文楽入門―人形は口ほどにものを言い (小学館文庫)

赤川次郎の文楽入門―人形は口ほどにものを言い (小学館文庫)

仏果を得ず

仏果を得ず

続・文楽の研究 (岩波文庫)

続・文楽の研究 (岩波文庫)